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六祖壇経 / 機縁品第七

達聞偈,不覺悲泣,言下大悟,而告師曰:「法達從昔已來,實未曾轉法華,乃被法華轉。」再啓曰:「經云:『諸大聲聞乃至菩薩,皆盡思共度量,不能測佛智。』今令凡夫但悟自心,便名佛之知見,自非上根,未免疑謗。又經說三車,羊鹿牛車與白牛之車,如何區別,願和尚再垂開示。」師曰:「經意分明,汝自迷背。諸三乘人,不能測佛智者,患在度量也,饒伊盡思共推,轉加懸遠。佛本為凡夫說,不為佛說,此理若不肯信者,從他退席,殊不知坐卻白牛車,更於門外覓三車。況經文明向汝道,唯一佛乘,無有餘乘。若二若三乃至無數,方便種種因緣譬喻言詞,是法皆為一佛乘故。汝何不省?三車是假,為昔時故;一乘是實,為今時故。只教汝去假歸實,歸實之後,實亦無名。應知所有珍財,盡屬於汝,由汝受用,更不作父想,亦不作子想,亦無用想;是名持法華經。從劫至劫,手不釋卷,從晝至夜,無不念時也。」達蒙啓發,踴躍歡喜,以偈讚曰:「經誦三千部,曹溪一句亡,未明出世旨,寧歇累生狂;羊鹿牛權設,初中後善揚,誰知火宅內,元是法中王。」師曰:「汝今後方可名念經僧也。」達從此領玄旨,亦不輟誦經。

新字:達聞偈,不覚悲泣,言下大悟,而告師曰:「法達従昔已来,実未曽転法華,乃被法華転。」再啓曰:「経云:『諸大声聞乃至菩薩,皆尽思共度量,不能測仏智。』今令凡夫但悟自心,便名仏之知見,自非上根,未免疑謗。又経説三車,羊鹿牛車与白牛之車,如何区別,願和尚再垂開示。」師曰:「経意分明,汝自迷背。諸三乗人,不能測仏智者,患在度量也,饒伊尽思共推,転加懸遠。仏本為凡夫説,不為仏説,此理若不肯信者,従他退席,殊不知坐却白牛車,更於門外覓三車。況経文明向汝道,唯一仏乗,無有余乗。若二若三乃至無数,方便種種因縁譬喩言詞,是法皆為一仏乗故。汝何不省?三車是仮,為昔時故;一乗是実,為今時故。只教汝去仮帰実,帰実之後,実亦無名。応知所有珍財,尽属於汝,由汝受用,更不作父想,亦不作子想,亦無用想;是名持法華経。従劫至劫,手不釈巻,従昼至夜,無不念時也。」達蒙啓発,踴躍歓喜,以偈讃曰:「経誦三千部,曹渓一句亡,未明出世旨,寧歇累生狂;羊鹿牛権設,初中後善揚,誰知火宅内,元是法中王。」師曰:「汝今後方可名念経僧也。」達従此領玄旨,亦不輟誦経。

書き下し

達偈を聞きて、覚えず悲泣し、言下に大悟して、師に告げて曰く、「法達、昔より已来、実に未だ曽て法華を転ぜず、乃ち法華に転ぜらる」と。再び啓して曰く、「経に云く、『諸の大声聞乃至菩薩、皆尽く思ひて共に度量すれども、仏智を測ること能はず』と。今凡夫をして但だ自心を悟らしめて、便ち仏の知見と名づく。自ら上根に非ずんば、未だ疑謗を免れず。又た経に三車を説く、羊鹿牛の車と白牛の車と、如何にか区別せん。願はくは和尚再び開示を垂れたまへ」と。師曰く、「経の意は分明なるに、汝自ら迷ひ背く。諸の三乗の人の、仏智を測ること能はざるは、患ひ度量に在り。饒(たと)ひ伊(かれ)尽く思ひて共に推すとも、転(うた)た懸遠を加ふ。仏は本凡夫の為に説き、仏の為に説かず。此の理若し肯て信ぜざる者は、他の退席するに従す。殊に知らず、白牛車に坐却して、更に門外に三車を覓むることを。況んや経文明らかに汝に向ひて道ふ、『唯だ一仏乗のみ有りて、余乗有ること無し。若しは二若しは三乃至無数の、方便・種種の因縁・譬喩・言詞、是の法は皆一仏乗の為の故なり』と。汝何ぞ省みざる。三車は是れ仮なり、昔時の為の故なり。一乗は是れ実なり、今時の為の故なり。只だ汝をして仮を去りて実に帰せしむ。実に帰して後は、実も亦た名無し。応に知るべし、所有の珍財、尽く汝に属し、汝が受用に由る。更に父の想を作さず、亦た子の想を作さず、亦た用の想無し。是れを法華経を持すと名づく。劫より劫に至るまで、手に巻を釈かず、昼より夜に至るまで、念ぜざる時無きなり」と。達啓発を蒙りて、踊躍歓喜し、偈を以て讃じて曰く、「経を誦すること三千部、曹溪の一句に亡ず。未だ出世の旨を明らめずんば、寧ぞ累生の狂を歇めん。羊鹿牛は権に設け、初中後善く揚ぐ。誰か知らん火宅の内、元是れ法中の王なることを」と。師曰く、「汝今後方に念経僧と名づくべし」と。達此れより玄旨を領し、亦た経を誦することを輟めず。

現代語訳

法達は偈を聞いて、思わず悲しみ泣き、言葉の下に大いに悟って、師に申し上げた。「法達はこれまで、実は一度も『法華経』を転じた(読みこなした)ことがなく、かえって『法華経』に転じられていた。」さらに申し上げた。「経には『諸々の大声聞から菩薩に至るまで、皆が思いを尽くしてともに推し量っても、仏の智慧を測ることはできない』とある。それなのに今、凡夫にただ自分の心を悟らせて、それを仏の知見と名づける。自分が優れた素質の者でなければ、疑ったり謗ったりすることを免れまい。また経は三車を説いている。羊の車・鹿の車・牛の車と、白い牛の車とは、どう区別するのか。どうか和尚、重ねてお示しを垂れていただきたい。」師は言った。「経の意味ははっきりしているのに、おまえが自分で迷って背いているのだ。三乗(声聞・縁覚・菩薩)の人々が仏の智慧を測れないのは、その病が推し量ることにあるからだ。たとえ彼らが思いを尽くしてともに推し量っても、ますます遠ざかるばかりである。仏はもともと凡夫のために説いたのであって、仏のために説いたのではない。この道理を信じようとしない者は、退席するに任せたのだ。彼らは、自分が白牛の車に坐っていながら、さらに門の外に三車を探し求めていることを少しも知らない。まして経文ははっきりとおまえに向かって言っている。『ただ一仏乗だけがあって、ほかの乗り物は無い。二つであれ三つであれ、ないし無数であれ、方便・さまざまな因縁・譬喩・言葉は、この法はすべて一仏乗のためのものである』と。おまえはどうしてそれを省みないのか。三車は仮のもので、昔の時のためのものだ。一乗は真実で、今の時のためのものだ。ただおまえに仮を去って真実に帰らせようとしているのだ。真実に帰った後は、真実という名すら無い。知るべきである、あらゆる宝はことごとくおまえのものであり、おまえが受け用いるに任されている。そのうえで父(与える者)という思いもなさず、子(受ける者)という思いもなさず、用いるという思いも無い。これを『法華経』を持つという。そうなれば劫から劫に至るまで手から経巻を離さず、朝から夜まで誦していない時は無いのである。」法達は啓発を受けて、躍り上がって喜び、偈によって讃えた。「経を誦すること三千部、曹溪(慧能)の一句でそれを忘れた。世に出た仏の本旨を明らかにしなければ、どうして幾生にもわたる狂いを止められよう。羊・鹿・牛の車は仮に設けたもの、初め・中・後とよく教えを掲げる。誰が知ろう、燃える家の中にいるそのままが、もとより法の中の王であることを。」師は言った。「おまえはこれからようやく念経僧(経を誦する僧)と名のってよい。」法達はこれ以後、深い趣旨を会得し、それでも経を誦することをやめなかった。

解説

法達が悟りに至る場面である。「未だ曽て法華を転ぜず、乃ち法華に転ぜらる」という言葉は、経を読んでいるつもりで実は経に振り回されていたという自覚を表し、禅語として広く知られる。慧能は三車の譬え(『法華経』譬喩品の、燃える家から子供を誘い出すために羊・鹿・牛の車を約束する話)について、三車は方便で一乗こそ真実だと説き、真実に帰ればその名すら要らないとまで言う。宝はすべてもう自分の手の中にあり、白牛車に坐りながら門外に車を探すな、というのだ。興味深いのは、悟った後の法達が読経をやめなかったことである。形を捨てるのではなく、形の意味が変わる。仕事の型や手順も、振り回されるか使いこなすかで価値が変わる。

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