六祖壇経 / 機縁品第七
為法切故,一夕,獨入丈室,請問如何是某甲本心本性?大通乃曰:『汝見虛空否?』對日:『見。』彼曰:『汝見虛空有相貌否?』對曰:『虛空無形,有何相貌?』彼曰:『汝之本性,猶如虛空,了無一物可見,是名正見;無一物可知,是名真知。無有青黃長短,但見本源清淨,覺體圓明,即名見性成佛,亦名如來知見。』學人雖聞此說,猶未決了,乞和尚開示。」師曰:「彼師所說,猶存見知,故今汝未了。吾今示汝一偈:曰『不見一法存無見,大似浮雲遮日面,不知一法守空知,還如太虛生閃電;此之知見瞥然興,錯認何曾解方便,汝當一念自知非,自己靈光常顯現。』」常聞偈已,心意豁然,乃述偈曰:「無端起知見,著相求菩提,情存一念悟,寧越昔時迷;自性覺源體,隨照枉遷流,不入祖師室,茫然趣兩頭。」智常一日問師曰:「佛說三乘法,又言最上乘,弟子未解,願為教授。」師曰:「汝觀自本心,莫著外法相,法無四乘,人心自有等差。見聞轉誦,是小乘;悟法解義,是中乘;依法修行,是大乘。萬法盡通,萬法俱備,一切不染,離諸法相,一無所得,名最上乘。乘是行義,不在口爭,汝須自修,莫問吾也,一切時中,自性自如。」常禮謝執侍,終師之世。
新字:為法切故,一夕,独入丈室,請問如何是某甲本心本性?大通乃曰:『汝見虚空否?』対日:『見。』彼曰:『汝見虚空有相貌否?』対曰:『虚空無形,有何相貌?』彼曰:『汝之本性,猶如虚空,了無一物可見,是名正見;無一物可知,是名真知。無有青黄長短,但見本源清浄,覚体円明,即名見性成仏,亦名如来知見。』学人雖聞此説,猶未決了,乞和尚開示。」師曰:「彼師所説,猶存見知,故今汝未了。吾今示汝一偈:曰『不見一法存無見,大似浮雲遮日面,不知一法守空知,還如太虚生閃電;此之知見瞥然興,錯認何曽解方便,汝当一念自知非,自己霊光常顕現。』」常聞偈已,心意豁然,乃述偈曰:「無端起知見,著相求菩提,情存一念悟,寧越昔時迷;自性覚源体,随照枉遷流,不入祖師室,茫然趣両頭。」智常一日問師曰:「仏説三乗法,又言最上乗,弟子未解,願為教授。」師曰:「汝観自本心,莫著外法相,法無四乗,人心自有等差。見聞転誦,是小乗;悟法解義,是中乗;依法修行,是大乗。万法尽通,万法倶備,一切不染,離諸法相,一無所得,名最上乗。乗是行義,不在口争,汝須自修,莫問吾也,一切時中,自性自如。」常礼謝執侍,終師之世。
書き下し
法の為に切なるが故に、一夕、独り丈室に入りて、請ひ問ふ、如何なるか是れ某甲の本心本性と。大通乃ち曰く、『汝虚空を見るや否や』と。対へて曰く、『見る』と。彼曰く、『汝虚空に相貌有るを見るや否や』と。対へて曰く、『虚空は無形なり、何の相貌か有らん』と。彼曰く、『汝の本性は、猶ほ虚空の如し、了に一物の見るべき無し、是れを正見と名づく。一物の知るべき無し、是れを真知と名づく。青黄長短有ること無く、但だ本源清浄にして、覚体円明なるを見る、即ち見性成仏と名づけ、亦た如来の知見と名づく』と。学人此の説を聞くと雖も、猶ほ未だ決了せず、乞ふ和尚開示したまへ」と。師曰く、「彼の師の説く所は、猶ほ見知を存す、故に今汝未だ了せず。吾今汝に一偈を示さん。曰く、『一法を見ずして無見を存す、大いに浮雲の日面を遮るに似たり。一法を知らずして空知を守る、還つて太虚に閃電を生ずるが如し。此の知見瞥然として興る、錯り認めて何ぞ曽て方便を解せん。汝当に一念に自ら非を知るべし、自己の霊光常に顕現せん』」と。常偈を聞き已りて、心意豁然たり。乃ち偈を述べて曰く、「端無くも知見を起し、相に著して菩提を求む。情に一念の悟を存せば、寧ぞ昔時の迷を越えん。自性覚源の体、照に随ひて枉げて遷流す。祖師の室に入らずんば、茫然として両頭に趣かん」と。智常一日師に問ひて曰く、「仏は三乗の法を説き、又た最上乗と言ふ。弟子未だ解せず、願はくは為に教授したまへ」と。師曰く、「汝自らの本心を観ぜよ、外の法相に著すること莫れ。法に四乗無し、人心に自ら等差有り。見聞転誦するは、是れ小乗なり。法を悟り義を解するは、是れ中乗なり。法に依りて修行するは、是れ大乗なり。万法尽く通じ、万法倶に備はり、一切染まらず、諸法の相を離れ、一として得る所無き、最上乗と名づく。乗は是れ行の義なり、口に争ふに在らず。汝須らく自ら修すべし、吾に問ふこと莫れ。一切時中、自性自如なり」と。常礼謝して執侍し、師の世を終ふ。
現代語訳
法を求める気持ちが切実であったので、ある晩ひとりで方丈の部屋に入り、わたしの本心・本性とはどのようなものか、とお尋ねした。すると大通は言った。『おまえは虚空を見るか。』わたしは答えた。『見る。』彼は言った。『おまえは虚空に姿かたちがあるのを見るか。』わたしは答えた。『虚空には形が無い。どんな姿かたちがあろうか。』彼は言った。『おまえの本性はちょうど虚空のようなもので、見るべき一物もまったく無い。これを正しい見方という。知るべき一物も無い。これを真の知という。青や黄、長や短といった区別は無く、ただ根源が清浄で、覚りの本体が完全に明るいのを見る。これを見性成仏といい、また如来の知見ともいう。』わたしはこの説を聞いたものの、まだはっきりと決着がつかない。どうか和尚、お示しいただきたい。」師は言った。「あの師の説くところには、まだ見ることと知ることが残っている。だからおまえはまだ悟りきれないのだ。わたしはいまおまえに一つの偈を示そう。『一つの法も見ないとしながら、見ないということを残している、それは浮雲が太陽の面を遮るのにそっくりだ。一つの法も知らないとしながら空しい知を守っている、それはかえって大空に稲妻を生じるようなものだ。この知見がちらりと起これば、誤ってそれを悟りと認め、いったいいつ方便を理解できよう。おまえは一念のうちにみずからその誤りを知るべきである。そうすれば自分自身の霊妙な光が常に現れるだろう。』」智常は偈を聞き終えると、心がからりと開けた。そこで偈を述べた。「わけもなく知見を起こし、相に執着して悟りを求めていた。心に一念の悟りを抱えていては、どうして昔の迷いを越えられよう。自分の本性という悟りの源の本体が、照らすに随ってむなしく流れ移っていた。祖師の部屋に入らなければ、ぼんやりと両極端へ向かっていただろう。」智常はある日、師に問うた。「仏は三乗の法を説き、また最上乗とも言う。弟子にはまだわからない。どうか教えていただきたい。」師は言った。「おまえ自身の本心を観よ。外の法の姿に執着してはならない。法に四つの乗り物など無く、人の心に自ずから違いがあるだけだ。見聞きして誦すること、これが小乗である。法を悟り意味を理解すること、これが中乗である。法によって修行すること、これが大乗である。あらゆる法にことごとく通じ、あらゆる法をすべて具え、一切に染まらず、諸々の法の姿を離れ、何一つ得るところが無いこと、これを最上乗という。乗とは行うという意味であって、口で争うことにあるのではない。おまえは自分で修めよ。わたしに問うな。あらゆる時に、自分の本性はそのままにあるのだ。」智常は礼拝して感謝し、師のそばに仕えて、師の生涯が終わるまで離れなかった。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』機縁品第七僧智通は、寿州安豊の人なり。初め楞伽経を看ること約千余遍、而も三身四智を会せず、師を礼して其の義を解せんことを求む。師曰く、「三身とは、清浄法身は汝の性なり。円満報身は汝の智なり。千百億化身は汝の行なり。若し本性を離れて、別に三身を説かば、即ち有身無智と名づく。若し三身に自性有ること無きを悟らば、即ち四智菩提と名づく。吾が偈を聴け。曰く、『自性に三身を具へ、発明して四智を成ず。見聞の縁を離れずして、超然として仏地に登る。吾今汝が為に説く、諦(あきら)かに信じて永く迷ふこと無かれ。馳求する者の、終日菩提を説くを学ぶこと莫れ』」と。通再び啓して曰く、「四智の義、聞くことを得べきか」と。師曰く、「既に三身を会せば、便ち四智を明らむ、何ぞ更に問はんや。若し三身を離れて、別に四智を談ぜば、此れを有智無身と名づく。即ち此の有智も、還つて無智と成る」と。復た偈して曰く、「大円鏡智は性清浄、平等性智は心に病無し、妙観察智は見るに功に非ず、成所作智は円鏡に同じ。五八六七は果因に転ず、但だ名言を用ふるのみにして実性無し。若し転処に於て情を留めずんば、繁興して永く那伽定に処せん」。通頓に性智を悟り、遂に偈を呈して曰く、「三身は元我が体、四智は本心の明なり。身智融けて礙無く、物に応じて形に随ふに任す。修を起すは皆妄動、守住するは真精に匪ず。妙旨は師に因りて暁る、終に染汚の名を亡ぜん」と。僧智常は、信州貴溪の人なり。髫年にして出家し、志して見性を求む。一日参礼す。師問ひて曰く、「汝何れより来る。何事をか求めんと欲する」と。曰く、「学人近ごろ洪州白峰山に往きて大通和尚を礼し、見性成仏の義を示さるるを蒙るも、未だ狐疑を決せず、遠く来りて投礼す。伏して望むらくは和尚慈悲もて指示したまへ」と。師曰く、「彼に何の言句か有る、汝試みに挙し看よ」と。曰く、「智常彼に到りて、凡そ三月を経れども、未だ示誨を蒙らず。
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『六祖壇経』般若品第二吾が頌を聴け、曰く、説通及び心通は、日の虚空に処するが如し。唯だ見性の法を伝へ、世に出でて邪宗を破す。法には即ち頓漸無し、迷悟に遅疾有り。只だ此の見性の門、愚人は悉くすべからず。説くことは即ち万般なりと雖も、理に合すれば還た一に帰す。煩悩の暗宅の中、常に須らく慧日を生ずべし。邪来れば煩悩至り、正来れば煩悩除く。邪正倶に用ひざれば、清浄にして無余に至る。菩提は本自性なり、心を起せば即ち是れ妄なり。浄心は妄の中に在り、但だ正しければ三障無し。世人若し道を修せば、一切尽く妨げず。常に自ら己が過を見れば、道と即ち相当る。色類自ら道有り、各相妨げ悩まさず。道を離れて別に道を覓むれば、終生道を見ず。波波として一生を度り、到頭(つまるところ)還た自ら懊む。真道を見んと欲得せば、正を行ずる即ち是れ道なり。自ら若し道心無くば、闇に行きて道を見ず。若し真に修道の人ならば、世間の過を見ず。若し他人の非を見ば、自らの非却つて是れ左(たが)ふ。他は非なるも我は非とせず、我が非は自ら過有り。但だ自ら非心を却(しりぞ)け、煩悩を打除して破れ。憎愛心に関せず、長く両脚を伸べて臥す。他人を化せんと擬欲せば、自ら須らく方便有るべし。彼をして疑ひ有らしむること勿れ、即ち是れ自性現ず。仏法は世間に在り、世間を離れずして覚る。世を離れて菩提を覓むるは、恰も兎角を求むるが如し。正見を出世と名づけ、邪見を世間と名づく。邪正尽く打却すれば、菩提の性宛然たり。此の頌は是れ頓教、亦大法船と名づく。迷ひて聞けば経ること累劫、悟れば則ち刹那の間なり。師復た曰く、「今大梵寺に於て此の頓教を説く。普く願はくは法界の衆生、言下に見性成仏せんことを」と。時に韋使君と官僚道俗、師の説く所を聞きて、省悟せざる無し。一時に礼を作し、皆善き哉と嘆ず。何ぞ期せん、嶺南に仏有りて世に出でんとは。
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『六祖壇経』頓漸品第八行昌忽然として大悟し、偈を説きて云う、「無常の心を守るに因りて、仏は有常の性を説く。方便を知らざる者は、猶お春池に礫を拾うがごとし。我今功を施さずして、仏性而も現前す。師の相授与するに非ず、我も亦た得る所無し」と。師曰く、「汝今徹せり、宜しく志徹と名づくべし」と。徹、礼謝して退く。一童子有り、神会と名づく、襄陽の高氏の子なり、年十三、玉泉より来りて参礼す。師曰く、「知識遠く来りて艱辛す、還た本を将ち得来るや否や。若し本有らば則ち合に主を識るべし、試みに説き看よ」と。会曰く、「無住を以て本と為し、見は即ち是れ主なり」と。師曰く、「這の沙弥、争でか合に取次の語をすべけんや」と。会乃ち問いて曰く、「和尚坐禅するに、還た見るや見ずや」と。師、柱杖を以て打つこと三下して云う、「吾汝を打つ、是れ痛きや痛からずや」と。対えて曰く、「亦た痛く、亦た痛からず」と。師曰く、「吾も亦た見、亦た見ず」と。神会問う、「如何なるか是れ亦た見、亦た見ず」と。師云う、「吾の見る所は、常に自心の過愆を見て、他人の是非好悪を見ず。是を以て亦た見、亦た見ず。汝が亦た痛く亦た痛からずと言うは、如何。汝若し痛からずんば、其の木石に同じ。若し痛くんば、則ち凡夫に同じく、即ち恚恨を起こさん。汝が向前の見る見ずは、是れ二辺なり。痛き痛からずは、是れ生滅なり。汝は自性すら且つ見ず、敢えて爾く人を弄するか」と。神会礼拝して悔謝す。師又曰く、「汝若し心迷いて見ずんば、善知識に問いて路を覓めよ。汝若し心悟らば、即ち自ら性を見て、法に依りて修行せよ。汝自ら迷いて自心を見ず、却って来りて吾が見ると見ざるとを問う。吾が見るは自ら知る、豈に汝の迷いに代わらんや。汝若し自ら見るとも、亦た吾が迷いに代わらず。何ぞ自ら知り自ら見ずして、乃ち吾が見ると見ざるとを問うや」と。神会再び礼すること百余拝、過愆を謝せんことを求め、勤めに服して給侍し、左右を離れず。一日、師衆に告げて曰く、「吾に一物有り、頭無く尾無く、名無く字無く、背無く面無し。諸人還た識るや否や」と。
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『六祖壇経』付嘱品第十法身・報身及び化身、三身は本来是れ一身なり。若し性中に向かいて能く自ら見れば、即ち是れ成仏菩提の因なり。本化身より浄性を生じ、浄性は常に化身の中に在り。性は化身をして正道を行ぜしめ、当来円満して真に窮まり無し。淫性は本是れ浄性の因、淫を除けば即ち是れ浄性の身なり。性中に各自五欲を離れば、見性刹那に即ち是れ真なり。今生若し頓教の門に遇わば、忽ち自性を悟りて世尊を見ん。若し修行して仏と作らんことを覓めんと欲せば、知らず何れの処にか真を求めんと擬する。若し能く心中に自ら真を見れば、真有るは即ち是れ成仏の因なり。自性を見ずして外に仏を覓むれば、心を起こすこと総て是れ大痴人なり。頓教の法門今已に留む、世人を救度するには須らく自ら修すべし。汝当来の学道者に報ず、此の見を作さずんば大いに悠悠たらん」』と。師、偈を説き已りて、告げて曰く、『汝等好く住せよ。吾が滅度の後、世情の悲泣して涙を雨らし、人の弔問を受け、身に孝服を著くることを作す莫かれ。吾が弟子に非ず、亦た正法に非ず。但だ自らの本心を識り、自らの本性を見よ。動無く静無く、生無く滅無く、去無く来無く、是無く非無く、住無く往無し。恐らくは汝等心迷いて、吾が意を会せざらん、今再び汝に嘱して、汝をして性を見しむ。吾が滅度の後、此れに依りて修行せば、吾が在りし日の如し。若し吾が教えに違わば、縦い吾世に在るとも、亦た益有ること無し』と。復た偈を説きて曰く、『兀兀として善を修せず、騰騰として悪を造らず。寂寂として見聞を断じ、蕩蕩として心に著する無し』と。師、偈を説き已りて、端坐して三更に至り、忽ち門人に謂いて曰く、『吾行かん』と。奄然として遷化す。時に異香室に満ち、白虹地に属し、林木白に変じ、禽獣哀しみ鳴く。十一月、広・韶・新の三郡の官僚、洎び門人緇白、争いて真身を迎え、之く所を決する莫し。乃ち香を焚きて禱りて曰く、『香煙の指す処、師の帰する所ならん』と。時に香煙直ちに曹渓を貫く。十一月十三日、神龕並びに伝うる所の衣鉢を遷して回る。
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『六祖壇経』頓漸品第八師曰く、「汝が師の戒定慧は、大乘の人を接す。吾が戒定慧は、最上乘の人を接す。悟解同じからず、見に遲疾有り。汝吾が説を聽け、彼と同じきや否や。吾が説く所の法は、自性を離れず。體を離れて法を説く、名づけて相説と為す。自性常に迷ふ。須らく知るべし、一切の萬法は、皆な自性より起用す、是れ真の戒定慧の法なりと。吾が偈を聽け」と曰く、『心地に非無きは自性の戒、心地に痴無きは自性の慧、心地に亂無きは自性の定。增さず減らざるは自ら金剛、身去り身來るも本と三昧なり。』
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『六祖壇経』頓漸品第八誠、偈を聞きて悔謝し、乃ち一偈を呈す。「五蘊の幻身、幻何ぞ究竟ならん。真如に回趣すれば、法還た浄からず」と。師之を然りとす。復た誠に語りて曰く、「汝が師の戒定慧は、小根智の人に勧め、吾が戒定慧は、大根智の人に勧む。若し自性を悟れば、亦た菩提涅槃を立てず、亦た解脱知見を立てず。一法の得べき無くして、方に能く万法を建立す。若し此の意を解せば、亦た仏身と名づけ、亦た菩提涅槃と名づけ、亦た解脱知見と名づく。見性の人は、立つるも亦た得、立てざるも亦た得、去来自由にして、滞り無く礙り無し。応用は作すに随い、応語は答うるに随う。普く化身を見て、自性を離れず、即ち自在神通、遊戯三昧を得。是れを見性と名づく」と。志誠再び師に啓して曰く、「如何なるか是れ不立の義」と。師曰く、「自性は非無く、痴無く、乱無し。念念に般若もて観照し、常に法相を離れ、自由自在にして、縦横に尽く得たり、何の立つべき有らん。自性は自ら悟り、頓に悟り頓に修し、亦た漸次無し、所以に一切の法を立てず。諸法は寂滅す、何の次第か有らん」と。志誠礼拝し、執侍と為らんことを願い、朝夕懈らず。僧志徹は、江西の人なり、本姓は張、名は行昌、少くして任侠なり。南北分化してより、二宗の主は彼我を亡ずと雖も、而も徒侶は競いて愛憎を起こす。時に北宗の門人、自ら秀師を立てて第六祖と為し、而して祖師の衣を伝えしことの天下に聞こゆるを忌み、乃ち行昌に嘱して来りて師を刺さしむ。師は心通なれば、預め其の事を知り、即ち金十両を座間に置く。時に夜暮、行昌祖室に入り、将に害を加えんと欲す、師頸を舒べて之に就く。行昌刃を揮うこと三たび、悉く損う所無し。師曰く、「正剣は邪ならず、邪剣は正ならず。只だ汝に金を負うのみ、汝に命を負わず」と。行昌驚きて僕れ、久しくして方に甦り、哀れみを求めて過ちを悔い、即ち出家を願う。師遂に金を与えて言う、「汝且く去れ、恐らくは徒衆翻って汝を害せん。汝は他日形を易えて来るべし、吾当に摂受すべし」と。
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