六祖壇経 / 機縁品第七
師曰:「經有何過,豈障汝念?只為迷悟在人,損益由己。口誦心行,即是轉經;口誦心不行,即是被經轉。聽吾偈曰: 『心迷法華轉,心悟轉法華, 誦經久不明,與義作仇家; 無念念即正,有念念成邪, 有無俱不計,長御白牛車。』」
新字:師曰:「経有何過,豈障汝念?只為迷悟在人,損益由己。口誦心行,即是転経;口誦心不行,即是被経転。聴吾偈曰: 『心迷法華転,心悟転法華, 誦経久不明,与義作仇家; 無念念即正,有念念成邪, 有無倶不計,長御白牛車。』」
書き下し
師曰く、「經に何の過か有らん、豈に汝の念を障へんや。只だ迷悟の人に在り、損益の己に由るが為なり。口に誦し心に行ずる、即ち是れ經を轉ずるなり。口に誦して心に行ぜざる、即ち是れ經に轉ぜらるるなり。吾が偈を聽け」と。 『心迷へば法華に轉ぜられ、心悟れば法華を轉ず、 經を誦すること久しきも明らかならざれば、義と仇家を作す。 念無ければ念即ち正しく、念有れば念邪を成す。 有無俱に計らざれば、長へに白牛車を御せん。』
現代語訳
慧能は言った。「経に何の過ちがあろうか、どうしておまえの読誦をさまたげようか。ただ迷うか悟るかは人にあり、損か益かは自分次第だからだ。口で誦して心で行ずれば、それが経を転ずるということ。口で誦して心で行じなければ、それが経に転ぜられるということだ。私の偈を聴きなさい」。 「心が迷えば法華に転ぜられ、心が悟れば法華を転ずる。 経を誦して久しくても明らかにならなければ、経の意味と仇同士になる。 思いがなければ思いはそのまま正しく、思いがあれば思いは邪となる。 有と無のどちらも計らなければ、いつまでも白い牛の車を御していける」。
解説
法華経を三千部読んだ法達への、慧能の続きの言葉である。まず経を弁護する。「經に何の過か有らん」——経が悪いのではない。損得は読む側にある。そして有名な一句、「心迷へば法華に轉ぜられ、心悟れば法華を轉ず」。同じ経が、こちらの状態によって主客を入れ替える。悟っていれば経を使いこなし、迷っていれば経に振り回される。読誦の量ではなく、向きの問題だと言っている。「經を誦すること久しきも明らかならざれば、義と仇家を作す」——長く読んでも意味が見えなければ、経の心と敵同士になる。長さは味方をしてくれない。白牛車は法華経の譬喩で、諸乗を超えた一乗を指す。有無どちらにも勘定を立てないところで、はじめてそれを御せる、と締められている。書物や教えとのつき合い方の話として、いまも同じに読める。
この章句が説くこと
心迷法華転心悟転法華法達口誦心行白牛車
関連する章句
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『六祖壇経』機縁品第七達偈を聞きて、覚えず悲泣し、言下に大悟して、師に告げて曰く、「法達、昔より已来、実に未だ曽て法華を転ぜず、乃ち法華に転ぜらる」と。再び啓して曰く、「経に云く、『諸の大声聞乃至菩薩、皆尽く思ひて共に度量すれども、仏智を測ること能はず』と。今凡夫をして但だ自心を悟らしめて、便ち仏の知見と名づく。自ら上根に非ずんば、未だ疑謗を免れず。又た経に三車を説く、羊鹿牛の車と白牛の車と、如何にか区別せん。願はくは和尚再び開示を垂れたまへ」と。師曰く、「経の意は分明なるに、汝自ら迷ひ背く。諸の三乗の人の、仏智を測ること能はざるは、患ひ度量に在り。饒(たと)ひ伊(かれ)尽く思ひて共に推すとも、転(うた)た懸遠を加ふ。仏は本凡夫の為に説き、仏の為に説かず。此の理若し肯て信ぜざる者は、他の退席するに従す。殊に知らず、白牛車に坐却して、更に門外に三車を覓むることを。況んや経文明らかに汝に向ひて道ふ、『唯だ一仏乗のみ有りて、余乗有ること無し。若しは二若しは三乃至無数の、方便・種種の因縁・譬喩・言詞、是の法は皆一仏乗の為の故なり』と。汝何ぞ省みざる。三車は是れ仮なり、昔時の為の故なり。一乗は是れ実なり、今時の為の故なり。只だ汝をして仮を去りて実に帰せしむ。実に帰して後は、実も亦た名無し。応に知るべし、所有の珍財、尽く汝に属し、汝が受用に由る。更に父の想を作さず、亦た子の想を作さず、亦た用の想無し。是れを法華経を持すと名づく。劫より劫に至るまで、手に巻を釈かず、昼より夜に至るまで、念ぜざる時無きなり」と。達啓発を蒙りて、踊躍歓喜し、偈を以て讃じて曰く、「経を誦すること三千部、曹溪の一句に亡ず。未だ出世の旨を明らめずんば、寧ぞ累生の狂を歇めん。羊鹿牛は権に設け、初中後善く揚ぐ。誰か知らん火宅の内、元是れ法中の王なることを」と。師曰く、「汝今後方に念経僧と名づくべし」と。達此れより玄旨を領し、亦た経を誦することを輟めず。
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『六祖壇経』機縁品第七師又曰く、「汝の名は甚麼(なん)ぞ」と。曰く、「法達」と。師曰く、「汝の名は法達なるも、何ぞ曽て法に達せん」と。復た偈を説きて曰く、「汝今法達と名づく、勤め誦して未だ休歇せず。空しく誦するは但だ声に循ふのみ、心を明らむるを菩薩と号す。汝今縁有るが故に、吾今汝が為に説く。但だ仏は無言なりと信ぜば、蓮花口より発かん」と。達偈を聞きて悔謝して曰く、「而今而後、当に一切に謙恭すべし。弟子法華経を誦すれども、未だ経義を解せず、心に常に疑ひ有り。和尚の智慧広大なり、願はくは略して経中の義理を説きたまへ」と。師曰く、「法達、法は即ち甚だ達すれども、汝の心達せず。経は本疑ひ無し、汝の心自ら疑ふ。汝此の経を念ずるに、何を以てか宗と為す」と。達曰く、「学人根性暗鈍にして、従来但だ文に依りて誦諗するのみ、豈に宗趣を知らんや」と。師曰く、「吾文字を識らず、汝試みに経を取りて誦すること一遍せよ、吾当に汝が為に解説すべし」と。法達即ち高声に経を念じて、譬喩品に至る。師曰く、「止めよ。此の経は元来因縁出世を以て宗と為す。縦ひ多種の譬喩を説くとも、亦た此れを越ゆること無し。何者か因縁なる。経に云く、『諸仏世尊は、唯だ一大事因縁を以ての故に、世に出現したまふ』と。一大事とは、仏の知見なり。世人は外に迷ひて相に著し、内に迷ひて空に著す。若し能く相に於て相を離れ、空に於て空を離るれば、即ち是れ内外迷はず。若し此の法を悟らば、一念に心開く、是れを仏の知見を開くと為す。仏は猶ほ覚のごときなり。分ちて四門と為す。覚の知見を開き、覚の知見を示し、覚の知見を悟り、覚の知見に入る。若し開示を聞きて便ち能く悟入せば、即ち覚の知見、本来の真性にして、出現することを得。汝慎んで経の意を錯解すること勿れ。他の開示悟入と道ふを見て、自ら是れ仏の知見なり、我が輩は分無しとすること。若し此の解を作さば、乃ち是れ経を謗り仏を毀るなり。彼既に是れ仏なれば、已に知見を具ふ、何ぞ更に開くことを用ひん。汝今当に信ずべし、仏の知見とは、只だ汝が自心にして、更に別の仏無し。
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『六祖壇経』機縁品第七師曰く、「汝若し念ずること萬部に至るも、其の經意を得て、以て勝れりと為さずんば、則ち吾と偕に行かん。汝今此の事業を負ひて、都て過ちを知らず。吾が偈を聽け」と。 「禮は本と慢幢を折るなり、頭奚ぞ地に至らざる。 我有れば罪即ち生じ、功を忘るれば福比ぶもの無し。」
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『六祖壇経』機縁品第七蓋し一切衆生の、自ら光明を蔽ひ、塵境を貪愛し、外縁内擾して、甘んじて駆馳を受くるが為に、便ち他の世尊を労して三昧より起ち、種種に苦口して、勧めて寝息せしめ、外に向ひて求むること莫れ、仏と二無しとす。故に仏の知見を開くと云ふ。吾も亦た一切の人に勧む、自心の中に於て、常に仏の知見を開け。世人は心邪にして、愚迷にして罪を造り、口は善にして心は悪、貪嗔・嫉妬・諂佞・我慢ありて、人を侵し物を害す、自ら衆生の知見を開く。若し能く心を正し、常に智慧を生じ、自心を観照して、悪を止め善を行ぜば、是れ自ら仏の知見を開くなり。汝須らく念念に仏の知見を開き、衆生の知見を開くこと勿れ。仏の知見を開くは、即ち是れ出世なり。衆生の知見を開くは、即ち是れ世間なり。汝若し但だ労労として念を執し、以て功課と為さば、何ぞ氂牛の尾を愛するに異ならん」と。達曰く、「若し然らば、但だ義を解することを得て、経を誦するを労せざるか」と。
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