六祖壇経 / 機縁品第七
師曰:「汝若念至萬部,得其經意,不以為勝,則與吾偕行。汝今負此事業,都不知過。聽吾偈曰: 「禮本折慢幢,頭奚不至地; 有我罪即生,忘功福無比。」
新字:師曰:「汝若念至万部,得其経意,不以為勝,則与吾偕行。汝今負此事業,都不知過。聴吾偈曰: 「礼本折慢幢,頭奚不至地; 有我罪即生,忘功福無比。」
書き下し
師曰く、「汝若し念ずること萬部に至るも、其の經意を得て、以て勝れりと為さずんば、則ち吾と偕に行かん。汝今此の事業を負ひて、都て過ちを知らず。吾が偈を聽け」と。 「禮は本と慢幢を折るなり、頭奚ぞ地に至らざる。 我有れば罪即ち生じ、功を忘るれば福比ぶもの無し。」
現代語訳
慧能は言った。「おまえがたとえ一万部を読誦したとしても、その経の意味を得て、それを優れたことだと思わないのであれば、私と共に行こう。おまえはいま、この読誦という功業を背負い、まったく自分の過ちに気づいていない。私の偈を聴きなさい」。 「礼はもともと慢心の旗を折るためのもの、なぜ頭が地につかないのか。 我があれば罪がそこに生じ、功を忘れれば福は比べるものがない」。
解説
法達という僧が慧能を訪ねて礼拝したが、頭を地につけなかった。理由を問うと「私は『法華経』を三千部読誦しました」と答える。それへの返答である。「汝今此の事業を負ひて」——読誦三千部という実績を背負っている、と言う。「負」の字が効いている。誇りは荷物だ。そして偈が刺す。「禮は本と慢幢を折るなり」。礼とは、慢心の旗を折るための作法である。作法の目的をそのまま持ち出して、目的を果たしていない礼を無効にしている。締めが「我有れば罪即ち生じ、功を忘るれば福比ぶもの無し」。功績を数えている限り我が立ち、我が立てば罪が生じる。忘れたときにだけ福が並ぶものなく大きい。ただし慧能は読誦そのものを否定していない。「其の經意を得て、以て勝れりと為さずんば」——優れたことだと思わないなら結構だ、と条件をつけているだけである。
この章句が説くこと
法達礼本折慢幢有我罪即生功を数える慢心