六祖壇経 / 機縁品第七
蓋為一切眾生,自蔽光明,貪愛塵境,外緣內擾,甘受驅馳,便勞他世尊從三昧起,種種苦口,勸令寢息,莫向外求,與佛無二;故云開佛知見。吾亦勸一切人,於自心中,常開佛之知見;世人心邪,愚迷造罪,口善心惡,貪嗔嫉妒諂佞我慢,侵人害物,自開眾生知見。若能正心,常生智慧,觀照自心,止惡行善,是自開佛之知見。汝須念念開佛知見,勿開眾生知見。開佛知見,即是出世;開眾生知見,即是世間,汝若但勞勞執念,以為功課者,何異氂牛愛尾?」達曰:「若然者,但得解義,不勞誦經耶?」
新字:蓋為一切衆生,自蔽光明,貪愛塵境,外縁内擾,甘受駆馳,便労他世尊従三昧起,種種苦口,勧令寝息,莫向外求,与仏無二;故云開仏知見。吾亦勧一切人,於自心中,常開仏之知見;世人心邪,愚迷造罪,口善心悪,貪嗔嫉妬諂佞我慢,侵人害物,自開衆生知見。若能正心,常生智慧,観照自心,止悪行善,是自開仏之知見。汝須念念開仏知見,勿開衆生知見。開仏知見,即是出世;開衆生知見,即是世間,汝若但労労執念,以為功課者,何異氂牛愛尾?」達曰:「若然者,但得解義,不労誦経耶?」
書き下し
蓋し一切衆生の、自ら光明を蔽ひ、塵境を貪愛し、外縁内擾して、甘んじて駆馳を受くるが為に、便ち他の世尊を労して三昧より起ち、種種に苦口して、勧めて寝息せしめ、外に向ひて求むること莫れ、仏と二無しとす。故に仏の知見を開くと云ふ。吾も亦た一切の人に勧む、自心の中に於て、常に仏の知見を開け。世人は心邪にして、愚迷にして罪を造り、口は善にして心は悪、貪嗔・嫉妬・諂佞・我慢ありて、人を侵し物を害す、自ら衆生の知見を開く。若し能く心を正し、常に智慧を生じ、自心を観照して、悪を止め善を行ぜば、是れ自ら仏の知見を開くなり。汝須らく念念に仏の知見を開き、衆生の知見を開くこと勿れ。仏の知見を開くは、即ち是れ出世なり。衆生の知見を開くは、即ち是れ世間なり。汝若し但だ労労として念を執し、以て功課と為さば、何ぞ氂牛の尾を愛するに異ならん」と。達曰く、「若し然らば、但だ義を解することを得て、経を誦するを労せざるか」と。
現代語訳
そもそも一切の衆生が、自分で自分の光明を覆い隠し、世俗の対象を貪り愛し、外の縁に引かれ内に乱されて、甘んじて駆り立てられているからこそ、世尊(釈迦)をわずらわせて三昧(深い瞑想)から立ち上がらせ、さまざまに口を酸っぱくして、それをやめるよう勧め、外に求めてはならない、自分は仏と二つではない、と説かせたのだ。だから仏の知見を開くというのである。わたしもまたすべての人に勧める。自分の心の中で、常に仏の知見を開け。世の人は心が邪で、愚かさと迷いによって罪を造り、口では善を言いながら心は悪く、貪り・怒り・嫉妬・へつらい・慢心があって、人を侵し物を害している。これは自分で衆生の知見を開いているのだ。もし心を正し、常に智慧を生じ、自分の心を照らし観て、悪を止め善を行うことができれば、それが自分で仏の知見を開くということである。おまえは一念一念に仏の知見を開き、衆生の知見を開いてはならない。仏の知見を開くことが、すなわち世間を超え出ることであり、衆生の知見を開くことが、すなわち世間にとどまることである。おまえがもしただあくせくと読誦の念に執着して、それを日課の手柄としているなら、ヤクが自分の尾を愛して惜しむのと何が違おうか。」法達は言った。「もしそうなら、ただ意味を理解しさえすれば、経を誦する苦労はいらないのか。」
解説
関連する章句
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『六祖壇経』機縁品第七師又曰く、「汝の名は甚麼(なん)ぞ」と。曰く、「法達」と。師曰く、「汝の名は法達なるも、何ぞ曽て法に達せん」と。復た偈を説きて曰く、「汝今法達と名づく、勤め誦して未だ休歇せず。空しく誦するは但だ声に循ふのみ、心を明らむるを菩薩と号す。汝今縁有るが故に、吾今汝が為に説く。但だ仏は無言なりと信ぜば、蓮花口より発かん」と。達偈を聞きて悔謝して曰く、「而今而後、当に一切に謙恭すべし。弟子法華経を誦すれども、未だ経義を解せず、心に常に疑ひ有り。和尚の智慧広大なり、願はくは略して経中の義理を説きたまへ」と。師曰く、「法達、法は即ち甚だ達すれども、汝の心達せず。経は本疑ひ無し、汝の心自ら疑ふ。汝此の経を念ずるに、何を以てか宗と為す」と。達曰く、「学人根性暗鈍にして、従来但だ文に依りて誦諗するのみ、豈に宗趣を知らんや」と。師曰く、「吾文字を識らず、汝試みに経を取りて誦すること一遍せよ、吾当に汝が為に解説すべし」と。法達即ち高声に経を念じて、譬喩品に至る。師曰く、「止めよ。此の経は元来因縁出世を以て宗と為す。縦ひ多種の譬喩を説くとも、亦た此れを越ゆること無し。何者か因縁なる。経に云く、『諸仏世尊は、唯だ一大事因縁を以ての故に、世に出現したまふ』と。一大事とは、仏の知見なり。世人は外に迷ひて相に著し、内に迷ひて空に著す。若し能く相に於て相を離れ、空に於て空を離るれば、即ち是れ内外迷はず。若し此の法を悟らば、一念に心開く、是れを仏の知見を開くと為す。仏は猶ほ覚のごときなり。分ちて四門と為す。覚の知見を開き、覚の知見を示し、覚の知見を悟り、覚の知見に入る。若し開示を聞きて便ち能く悟入せば、即ち覚の知見、本来の真性にして、出現することを得。汝慎んで経の意を錯解すること勿れ。他の開示悟入と道ふを見て、自ら是れ仏の知見なり、我が輩は分無しとすること。若し此の解を作さば、乃ち是れ経を謗り仏を毀るなり。彼既に是れ仏なれば、已に知見を具ふ、何ぞ更に開くことを用ひん。汝今当に信ずべし、仏の知見とは、只だ汝が自心にして、更に別の仏無し。
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『六祖壇経』般若品第二譬へば雨水は天より有るにあらず、元是れ龍能く興致して、一切衆生、一切草木、有情無情をして、悉皆潤ひを蒙らしめ、百川衆流、却つて大海に入り、合して一体と為るが如し。衆生本性の般若の智も、亦復た是の如し。善知識、小根の人、此の頓教を聞くこと、猶ほ草木の根性小なる者の、若し大雨を被れば、悉皆自ら倒れて、増長すること能はざるが如し。小根の人も亦復た是の如し。元般若の智有りて、大智の人と更に差別無し。何に因りてか法を聞きて自ら開悟せざる。邪見の障重く、煩悩の根深きに縁る。猶ほ大雲の日を覆蓋して、風の吹くを得ざれば、日光現ぜざるが如し。般若の智も亦大小無し。一切衆生の自心の迷悟同じからざるが為なり。迷心にて外に見て、修行して仏を覓め、未だ自性を悟らざる、即ち是れ小根なり。若し頓教を開悟して、外修に執せず、但だ自心に於て常に正見を起さば、煩悩塵労も常に染むること能はず、即ち是れ見性なり。善知識、内外に住せず、去来自由にして、能く執心を除き、通達して礙(さはり)無し。能く此の行を修せば、般若経と本差別無し。善知識、一切の修多羅及び諸の文字、大小の二乗、十二部経は、皆人に因りて置く。智慧の性に因りて、方に能く建立す。若し世人無くば、一切の万法本自ら有らず。故に知る、万法は本人より興ることを。一切の経書は、人に因りて有りと説く。其の人の中に縁りて、愚有り智有り。愚は小人為り、智は大人為り。愚者は智人に問ひ、智者は愚人の為に法を説く。愚人忽然として悟解し心開けば、即ち智人と別無し。善知識、悟らざれば即ち仏も是れ衆生、一念悟る時は衆生も是れ仏なり。故に知る、万法は尽く自心に在ることを。何ぞ心中より頓に真如本性を見ざる。菩薩戒経に云ふ、『我が本元自性清浄なり。若し自心を識り見性せば、皆仏道を成ず』と。浄名経に云ふ、『即時に豁然として、還た本心を得』と。
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『六祖壇経』機縁品第七師曰く、「經に何の過か有らん、豈に汝の念を障へんや。只だ迷悟の人に在り、損益の己に由るが為なり。口に誦し心に行ずる、即ち是れ經を轉ずるなり。口に誦して心に行ぜざる、即ち是れ經に轉ぜらるるなり。吾が偈を聽け」と。 『心迷へば法華に轉ぜられ、心悟れば法華を轉ず、 經を誦すること久しきも明らかならざれば、義と仇家を作す。 念無ければ念即ち正しく、念有れば念邪を成す。 有無俱に計らざれば、長へに白牛車を御せん。』
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『六祖壇経』付嘱品第十師言く、『汝等諦らかに聽け。後代の迷人、若し眾生を識らば、即ち是れ佛性なり。若し眾生を識らずんば、萬劫に佛を覓むるも逢ひ難し。吾れ今汝に自心の眾生を識り、自心の佛性を見ることを教へん。佛を見んと欲すれば、但だ眾生を識れ。只だ眾生の佛に迷ふが為にして、是れ佛の眾生に迷ふには非ず。自性若し悟らば、眾生は是れ佛なり。自性若し迷はば、佛は是れ眾生なり。自性平等ならば、眾生は是れ佛なり。自性邪險ならば、佛は是れ眾生なり。汝等の心若し險曲ならば、即ち佛眾生の中に在り。一念平直ならば、即ち是れ眾生の佛と成るなり。我が心に自ら佛有り、自らの佛は是れ真の佛なり。自ら若し佛心無くば、何れの處にか真の佛を求めん。汝等の自心は是れ佛なり。更に狐疑すること莫かれ。外に一物として能く建立する無く、皆な是れ本心の萬種の法を生ずるなり。故に經に云く、「心生ずれば、種種の法生じ、心滅すれば、種種の法滅す」と。吾れ今一偈を留めて、汝等と別れん。「自性真佛偈」と名づく。後代の人、此の偈の意を識らば、自ら本心を見て、自ら佛道を成ぜん。偈に曰く』と。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、我れ忍和尚の處に於て、一たび聞くや言下に便ち開悟し、頓に真如の本性を見る。是を以て此の教法を將て流行し、學道の者をして頓に菩提を悟り、各自に心を觀じ、自ら本性を見せしむ。若し自ら悟らずんば、大善知識の最上乘の法を解する者を覓めて、直ちに正路を示さしむるを須ゐよ。是れ善知識に大因緣有り。所謂る化導して見性を得しむ。一切の善法は、善知識に因りて能く發起するが故なり。三世の諸佛、十二部經は、人の性中に在りて本より自ら具有す。自ら悟る能はずんば、須らく善知識の指示を求めて方に見るべし。若し自ら悟る者は、外に求むるを假らず。若し一向に執して『他の善知識を須ゐて、解脫を得んことを望む』と謂ふ者は、是の處有ること無し。何を以ての故に。自心の內に有り、知識ありて自ら悟ればなり。若し邪迷を起こし、妄念顛倒せば、外の善知識に教授有りと雖も、救ふこと得べからず。若し真正の般若觀照を起こさば、一剎那の間に、妄念俱に滅す。若し自性を識らば、一悟すれば即ち佛地に至る。
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『六祖壇経』機縁品第七達偈を聞きて、覚えず悲泣し、言下に大悟して、師に告げて曰く、「法達、昔より已来、実に未だ曽て法華を転ぜず、乃ち法華に転ぜらる」と。再び啓して曰く、「経に云く、『諸の大声聞乃至菩薩、皆尽く思ひて共に度量すれども、仏智を測ること能はず』と。今凡夫をして但だ自心を悟らしめて、便ち仏の知見と名づく。自ら上根に非ずんば、未だ疑謗を免れず。又た経に三車を説く、羊鹿牛の車と白牛の車と、如何にか区別せん。願はくは和尚再び開示を垂れたまへ」と。師曰く、「経の意は分明なるに、汝自ら迷ひ背く。諸の三乗の人の、仏智を測ること能はざるは、患ひ度量に在り。饒(たと)ひ伊(かれ)尽く思ひて共に推すとも、転(うた)た懸遠を加ふ。仏は本凡夫の為に説き、仏の為に説かず。此の理若し肯て信ぜざる者は、他の退席するに従す。殊に知らず、白牛車に坐却して、更に門外に三車を覓むることを。況んや経文明らかに汝に向ひて道ふ、『唯だ一仏乗のみ有りて、余乗有ること無し。若しは二若しは三乃至無数の、方便・種種の因縁・譬喩・言詞、是の法は皆一仏乗の為の故なり』と。汝何ぞ省みざる。三車は是れ仮なり、昔時の為の故なり。一乗は是れ実なり、今時の為の故なり。只だ汝をして仮を去りて実に帰せしむ。実に帰して後は、実も亦た名無し。応に知るべし、所有の珍財、尽く汝に属し、汝が受用に由る。更に父の想を作さず、亦た子の想を作さず、亦た用の想無し。是れを法華経を持すと名づく。劫より劫に至るまで、手に巻を釈かず、昼より夜に至るまで、念ぜざる時無きなり」と。達啓発を蒙りて、踊躍歓喜し、偈を以て讃じて曰く、「経を誦すること三千部、曹溪の一句に亡ず。未だ出世の旨を明らめずんば、寧ぞ累生の狂を歇めん。羊鹿牛は権に設け、初中後善く揚ぐ。誰か知らん火宅の内、元是れ法中の王なることを」と。師曰く、「汝今後方に念経僧と名づくべし」と。達此れより玄旨を領し、亦た経を誦することを輟めず。
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