六祖壇経 / 懺悔品第六
『善知識!既懺悔已,與善知識發四弘誓願,各須用心正聽:自心眾生無邊誓願度, 自心煩惱無邊誓願斷, 自性法門無盡誓願學, 自性無上佛道誓願成。』『善知識!大家豈不道,眾生無邊誓願度?怎麼道,且不是惠能度。善知識!心中眾生,所謂邪迷心、誑妄心、不善心、嫉妒心、惡毒心,如是等心,盡是眾生,各須自性自度,是名真度。』『何名自性自度?即自心中邪見、煩惱、愚痴、眾生,將正見度。既有正見,使般若智打破愚痴迷妄眾生,各各自度。邪來正度,迷來悟度,愚來智度,惡來善度;如是度者,名為真度。』『又,煩惱無邊誓願斷,將自性般若智,除卻虛妄思想心是也。又,法門無盡誓願學,須自見性,常行正法,是名真學。又,無上佛道誓願成,既常能下心行於真正,離迷、離覺,常生般若,除真、除妄,即見佛性,即言下佛道成。常念修行是願力法。善知識!今發四弘願了,更與善知識授無相三歸依戒。』『善知識!歸依覺,兩足尊;歸依正,離欲尊;歸依淨,眾中尊。從今日起,稱覺為師,更不歸依邪魔外道。以自性三寶,常自證明,勸善知識,歸依自性三寶。佛者覺也,法者正也,僧者淨也。自心歸依覺,邪迷不生,少欲知足,能離財色,名兩足尊。
新字:『善知識!既懺悔已,与善知識発四弘誓願,各須用心正聴:自心衆生無辺誓願度, 自心煩悩無辺誓願断, 自性法門無尽誓願学, 自性無上仏道誓願成。』『善知識!大家豈不道,衆生無辺誓願度?怎麼道,且不是恵能度。善知識!心中衆生,所謂邪迷心、誑妄心、不善心、嫉妬心、悪毒心,如是等心,尽是衆生,各須自性自度,是名真度。』『何名自性自度?即自心中邪見、煩悩、愚痴、衆生,将正見度。既有正見,使般若智打破愚痴迷妄衆生,各各自度。邪来正度,迷来悟度,愚来智度,悪来善度;如是度者,名為真度。』『又,煩悩無辺誓願断,将自性般若智,除却虚妄思想心是也。又,法門無尽誓願学,須自見性,常行正法,是名真学。又,無上仏道誓願成,既常能下心行於真正,離迷、離覚,常生般若,除真、除妄,即見仏性,即言下仏道成。常念修行是願力法。善知識!今発四弘願了,更与善知識授無相三帰依戒。』『善知識!帰依覚,両足尊;帰依正,離欲尊;帰依浄,衆中尊。従今日起,称覚為師,更不帰依邪魔外道。以自性三宝,常自証明,勧善知識,帰依自性三宝。仏者覚也,法者正也,僧者浄也。自心帰依覚,邪迷不生,少欲知足,能離財色,名両足尊。
書き下し
「善知識、既に懺悔し已りて、善知識と四弘誓願を発さん。各須らく心を用ひて正しく聴くべし。自心の衆生無辺なれども誓つて度せんことを願ふ。自心の煩悩無辺なれども誓つて断ぜんことを願ふ。自性の法門無尽なれども誓つて学ばんことを願ふ。自性の無上仏道誓つて成ぜんことを願ふ」。「善知識、大家(みな)豈に道はざらんや、衆生無辺誓願度と。怎麼(いか)にか道ふ、且つ是れ惠能の度するにあらず。善知識、心中の衆生、所謂邪迷心・誑妄心・不善心・嫉妬心・悪毒心、是くの如き等の心、尽く是れ衆生なり。各須らく自性自ら度すべし、是れを真の度と名づく」。「何をか自性自度と名づくる。即ち自心の中の邪見・煩悩・愚痴の衆生を、正見を将(もつ)て度す。既に正見有らば、般若の智をして愚痴迷妄の衆生を打破せしめ、各各自ら度す。邪来れば正もて度し、迷来れば悟もて度し、愚来れば智もて度し、悪来れば善もて度す。是くの如く度する者を、名づけて真の度と為す」。「又、煩悩無辺誓願断とは、自性の般若の智を将て、虚妄の思想の心を除却する是れなり。又、法門無尽誓願学とは、須らく自ら性を見て、常に正法を行ずべし、是れを真の学と名づく。又、無上仏道誓願成とは、既に常に能く心を下して真正を行じ、迷を離れ覚を離れ、常に般若を生じ、真を除き妄を除かば、即ち仏性を見、即ち言下に仏道成る。常に念じて修行する、是れ願力の法なり。善知識、今四弘願を発し了りぬ。更に善知識の与(ため)に無相の三帰依戒を授けん」。「善知識、覚の両足尊に帰依し、正の離欲尊に帰依し、浄の衆中尊に帰依せよ。今日より起(はじ)めて、覚を称して師と為し、更に邪魔外道に帰依せざれ。自性の三宝を以て、常に自ら証明せよ。善知識に勧む、自性の三宝に帰依せよ。仏とは覚なり、法とは正なり、僧とは浄なり。自心覚に帰依すれば、邪迷生ぜず、少欲知足にして、能く財色を離る、両足尊と名づく。
現代語訳
「善知識よ。懺悔を終えたので、諸君とともに四弘誓願(仏道を志す者の四つの大きな誓い)を発そう。それぞれ心を用いて正しく聴け。自分の心の衆生は限りないが、誓って救うことを願う。自分の心の煩悩は限りないが、誓って断つことを願う。自分の本性の法門は尽きないが、誓って学ぶことを願う。自分の本性の無上の仏道を、誓って成就することを願う。」「善知識よ、皆は『衆生無辺誓願度』と唱えないことがあろうか。だがどういう意味で唱えるのか。それは、この慧能が救うということではない。善知識よ、心の中の衆生とは、いわゆる邪に迷う心、偽りの心、善くない心、嫉妬の心、悪意ある心であり、こうした心がすべて衆生なのだ。それぞれ自分の本性によって自分を救わなければならない。これを真の救いと呼ぶ。」「何を自性自度と呼ぶのか。自分の心の中の邪見・煩悩・愚かさという衆生を、正しい見方によって救うことである。正しい見方があれば、般若の智慧によって愚かさと迷妄の衆生を打ち破らせ、それぞれが自分を救う。邪が来れば正で救い、迷いが来れば悟りで救い、愚かさが来れば智慧で救い、悪が来れば善で救う。このように救うことを真の救いと呼ぶ。」「また『煩悩無辺誓願断』とは、自分の本性の般若の智慧によって、虚妄の思いに満ちた心を取り除くことである。また『法門無尽誓願学』とは、みずから本性を見て、常に正しい法を行うことであり、これを真の学びと呼ぶ。また『無上仏道誓願成』とは、常に心をへりくだらせて真正のことを行い、迷いを離れ、悟りをも離れ、常に般若を生じ、真をも除き妄をも除くならば、そのまま仏性を見て、言葉の下にただちに仏道が成就する、ということである。常に念じて修行すること、これが願力の法である。善知識よ、いま四弘誓願を発し終えた。さらに諸君のために無相の三帰依戒を授けよう。」「善知識よ、覚に帰依せよ、それは両足尊(最も尊い者)である。正に帰依せよ、それは離欲尊である。浄に帰依せよ、それは衆中尊である。今日からは覚を師と称し、二度と邪魔外道に帰依してはならない。自性の三宝によって、常にみずから証しを立てよ。善知識に勧める、自性の三宝に帰依せよ。仏とは覚であり、法とは正であり、僧とは浄である。自分の心が覚に帰依すれば、邪な迷いは生じず、欲少なく足るを知り、財と色から離れることができる。これを両足尊と呼ぶ。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』懺悔品第六自心正に帰依すれば、念念に邪見無し、邪見無きを以ての故に、即ち人我・貢高・貪愛・執著無し、離欲尊と名づく。自心浄に帰依すれば、一切の塵労愛欲の境界に、自性皆染著せず、衆中尊と名づく。若し此の行を修せば、是れ自ら帰依するなり。凡夫は会せず、日より夜に至るまで、三帰戒を受く。若し仏に帰依すと言はば、仏は何処にか在る。若し仏を見ずんば、何に憑りてか帰する所あらん。言却つて妄と成る」。「善知識、各自観察して、錯つて心を用ふること莫れ。経文分明に、自ら仏に帰依すと言ひ、他仏に帰依すとは言はず。自仏に帰せずんば、依る所の処無し。今既に自ら悟らば、各須らく自心の三宝に帰依し、内には心性を調へ、外には他人を敬ふべし、是れ自ら帰依するなり」。「善知識、既に自らの三宝に帰依し竟りぬ。各各志心せよ、吾与(ため)に一体三身自性の仏を説き、汝等をして三身を見、了然として自ら自性を悟らしめん。総て我に随ひて道へ。『自らの色身に於て、清浄法身仏に帰依す。自らの色身に於て、円満報身仏に帰依す。自らの色身に於て、千百億化身仏に帰依す』と」。「善知識、色身は是れ舎宅なり、帰向すと言ふべからず。三身の仏は自性の中に在り、世人総て有るも、自心迷へるが為に内性を見ず、外に三身の如来を覓めて、自身の中に三身の仏有るを見ず。汝等説くを聴け、汝等をして自身の中に於て自性に三身の仏有るを見しめん。此の三身の仏は、自性より生じ、外より得ず。何をか清浄法身仏と名づくる。世人の性は本清浄にして、万法は自性より生ず。一切の悪事を思量すれば、即ち悪行を生じ、一切の善事を思量すれば、即ち善行を生ず。是くの如き諸法、自性の中に在り、天の常に清く、日月の常に明らかなるが如きも、浮雲に蓋覆せらるれば、上は明らかに下は暗し。忽ち風吹きて雲散ずるに遇へば、上下倶に明らかに、万象皆現ず。世人の性の常に浮游すること、彼の天の雲の如し。善知識、
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『六祖壇経』懺悔品第六時に、大師、広韶洎(およ)び四方の士庶の、山中に駢集して法を聴くを見て、是に於て座に升りて衆に告げて曰く、「来れ、諸善知識。此の事は須らく自性の中より起すべし。一切の時に於て、念念に自ら其の心を浄め、自ら修し自ら行じ、自己の法身を見、自心の仏を見、自ら度し自ら戒めて、始めて此に到るを仮らざることを得ん。既に遠きより来りて、一たび此に会す、皆共に縁有り。今各各胡跪すべし。先づ為に自性の五分法身香を伝へ、次に無相懺悔を授けん」と。衆胡跪す。師曰く、
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『六祖壇経』付嘱品第十師言く、『汝等諦らかに聽け。後代の迷人、若し眾生を識らば、即ち是れ佛性なり。若し眾生を識らずんば、萬劫に佛を覓むるも逢ひ難し。吾れ今汝に自心の眾生を識り、自心の佛性を見ることを教へん。佛を見んと欲すれば、但だ眾生を識れ。只だ眾生の佛に迷ふが為にして、是れ佛の眾生に迷ふには非ず。自性若し悟らば、眾生は是れ佛なり。自性若し迷はば、佛は是れ眾生なり。自性平等ならば、眾生は是れ佛なり。自性邪險ならば、佛は是れ眾生なり。汝等の心若し險曲ならば、即ち佛眾生の中に在り。一念平直ならば、即ち是れ眾生の佛と成るなり。我が心に自ら佛有り、自らの佛は是れ真の佛なり。自ら若し佛心無くば、何れの處にか真の佛を求めん。汝等の自心は是れ佛なり。更に狐疑すること莫かれ。外に一物として能く建立する無く、皆な是れ本心の萬種の法を生ずるなり。故に經に云く、「心生ずれば、種種の法生じ、心滅すれば、種種の法滅す」と。吾れ今一偈を留めて、汝等と別れん。「自性真佛偈」と名づく。後代の人、此の偈の意を識らば、自ら本心を見て、自ら佛道を成ぜん。偈に曰く』と。
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『六祖壇経』懺悔品第六「吾に一の無相頌有り、若し能く誦持せば、言下に汝が積劫の迷罪をして、一時に消滅せしめん。頌に曰く、『迷人は福を修して道を修せず、只だ福を修するを便ち是れ道と言ふ。布施供養は福辺無けれども、心中の三悪は元来造る。福を修して罪を滅せんと擬将すれども、後世に福を得て罪還つて在り。但だ心中に向ひて罪縁を除け、各自性の中の真の懺悔なり。忽ち大乗の真の懺悔を悟らば、邪を除き正を行じて即ち罪無し。道を学ぶには常に自性に於て観ぜよ、即ち諸仏と同一類なり。吾が祖は唯だ此の頓法を伝ふ、普く願はくは見性して同一体ならんことを。若し当来に法身を覓めんと欲せば、諸法の相を離れて心中に洗へ。努力して自ら見よ悠悠たること莫れ、後念忽ち絶えなば一世休す。若し大乗を悟らば見性することを得ん、虔恭合掌して至心に求めよ』」。師言はく、「善知識、総て須らく誦取し、此れに依りて修行すべし。言下に見性せば、吾を去ること千里なりと雖も、常に吾が辺に在るが如し。此の言下に於て悟らずんば、即ち対面すとも千里なり、何ぞ勤めて遠く来らん。珍重、好し去れ」と。一衆法を聞きて、開悟せざるは靡く、歓喜して奉行す。
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『六祖壇経』懺悔品第六智は日の如く、慧は月の如し。智慧常に明らかなれども、外に於て境に著すれば、妄念の浮雲に蓋覆せられて、自性明朗なることを得ず。若し善知識に遇ひ、真正の法を聞かば、自ら迷妄を除き、内外明徹にして、自性の中に於て、万法皆現ず。見性の人も、亦復是くの如し。此れを清浄法身仏と名づく」。「善知識、自心自性に帰依する、是れ真仏に皈依するなり。自ら皈依する者は、自性の中の不善心・嫉妬心・諂曲心・吾我心・誑妄心・軽人心・慢他心・邪見心・貢高心、及び一切時中の不善の行を除却し、常に自ら己が過を見て、他人の好悪を説かず、是れ自ら皈依するなり。常に須らく心を下して、普く恭敬を行ずべし、即ち是れ見性通達にして、更に滞礙無し、是れ自ら皈依するなり」。「何をか円満報身と名づくる。譬へば一灯の能く千年の闇を除き、一智の能く万年の愚を滅するが如し。前に向ふことを思ふこと莫れ、已に過ぎしは得べからず。常に後を思ひ、念念円明にして、自ら本性を見よ。善悪殊なりと雖も、本性は二無し。無二の性、名づけて実性と為す。実性の中に於て、善悪に染まざる、此れを円満報身仏と名づく。自性一念の悪を起せば、万劫の善因を滅し、自性一念の善を起せば、恒沙の悪尽くることを得。直ちに無上菩提に至るまで、念念自ら見て、本念を失はざる、名づけて報身と為す。何をか千百億化身と名づくる。若し万法を思はざれば性本空の如し、一念思量する、名づけて変化と為す。悪事を思量すれば、化して地獄と為り、善事を思量すれば、化して天堂と為る。毒害は化して竜蛇と為り、慈悲は化して菩薩と為り、智慧は化して上界と為り、愚痴は化して下才と為る。自性の変化甚だ多し、迷人は省覚すること能はず、念念悪を起して、常に悪道を行く。一念の善に回らば、智慧即ち生ず、此れを自性化身仏と名づく」。
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『六祖壇経』懺悔品第六「善知識、此の香は各自内に薫ず、外に向ひて覓むること莫れ。今汝等に無相懺悔を授け、三世の罪を滅し、三業をして清浄なることを得しめん。善知識、各我が語に随ひて、一時に道へ。『弟子等、前念・今念及び後念より、念念に愚迷に染まざらん。従前所有の悪業愚迷等の罪、悉く皆懺悔す、願はくは一時に消滅して、永く復た起らざらんことを。弟子等、前念・今念及び後念より、念念に憍誑に染まざらん。従前所有の悪業憍誑等の罪、悉く皆懺悔す、願はくは一時に消滅して、永く復た起らざらんことを。弟子等、前念・今念及び後念より、念念に嫉妬に染まざらん。従前所有の悪業嫉妬等の罪、悉く皆懺悔す、願はくは一時に消滅して、永く復た起らざらんことを』と」。
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