六祖壇経 / 定慧品第四
師示眾云:善知識!道須通流,何以卻滯?心不住法,道即通流;心若住法,名為自縛。若言常坐不動是,只如舍利弗宴坐林中,卻被維摩詰訶。善知識!又有人教坐,看心觀靜,不動不起,從此置功,迷人不會,便執成顛。如此者眾,如是相教,故知大錯。師示眾云:善知識!本來正教,無有頓漸,人性自有利鈍。迷人漸修,悟人頓契,自識本心,自見本性,即無差別,所以立頓漸之假名。
新字:師示衆云:善知識!道須通流,何以却滞?心不住法,道即通流;心若住法,名為自縛。若言常坐不動是,只如舎利弗宴坐林中,却被維摩詰訶。善知識!又有人教坐,看心観静,不動不起,従此置功,迷人不会,便執成顛。如此者衆,如是相教,故知大錯。師示衆云:善知識!本来正教,無有頓漸,人性自有利鈍。迷人漸修,悟人頓契,自識本心,自見本性,即無差別,所以立頓漸之仮名。
書き下し
師、衆に示して云ふ、善知識、道は須らく通流すべし、何を以てか却つて滞る。心、法に住せざれば、道即ち通流す。心若し法に住すれば、名づけて自縛と為す。若し常に坐して動かざるを是と言はば、只だ舎利弗の林中に宴坐して、却つて維摩詰に訶せられしが如し。善知識、又人有り、坐して心を看、静を観じ、動かず起たざるを教へ、此より功を置かしむ。迷人は会せず、便ち執して顛を成す。此の如き者衆し。是の如く相教ふ、故に知る、大いに錯れることを。師、衆に示して云ふ、善知識、本来の正教には、頓漸有ること無し。人の性に自ら利鈍有り。迷人は漸修し、悟人は頓契す。自ら本心を識り、自ら本性を見れば、即ち差別無し。所以に頓漸の仮名を立つ。
現代語訳
大師は人々に教えて言った。善知識よ、道は通じて流れていなければならない。どうしてかえって滞るのか。心が法にとどまらなければ、道は通じて流れる。心がもし法にとどまれば、それを自ら縛るという。もしいつも座って動かないのが正しいと言うなら、舎利弗(釈迦の十大弟子の一人)が林の中で静かに座っていて、かえって維摩詰(在家の大居士)に叱られたのと同じことになる。善知識よ、また、座って心を見つめ、静けさを観じ、動かず立たないよう教え、そこに努力を注がせる人がいる。迷った人はそれを理解できず、すぐに執着して倒錯に陥る。こういう者が多い。このように教え合っているから、大きな誤りだと分かるのだ。大師は人々に教えて言った。善知識よ、本来の正しい教えには、頓(一挙に悟る)も漸(段階を踏んで悟る)もない。人の素質におのずから鋭い鈍いがあるだけだ。迷った人は段階を踏んで修め、悟った人は一挙に合致する。自ら本心を知り、自ら本性を見れば、何の違いもない。だから頓と漸という仮の名を立てるのである。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』頓漸品第八師眾に謂ひて曰く、「法は本と一宗なるも、人に南北有り。法は即ち一種なるも、見に遲疾有り。何をか頓漸と名づけん。法に頓漸無く、人に利鈍有り、故に頓漸と名づく」と。
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『六祖壇経』坐禅品第五善知識よ、若し不動を修する者は、但だ一切の人を見る時、人の是非善惡過患を見ざる、即ち是れ自性不動なり。善知識よ、迷人は身動かずと雖も、口を開けば便ち他人の是非長短好惡を説く。道と違背す。若し心に著し淨に著せば、即ち道を障ふるなり。師眾に示して云く、善知識よ、何をか坐禪と名づくる。此の法門の中に、障無く礙無し。外一切の善惡の境界に於て、心念起こらざる、坐と名づく。內に自性の不動なるを見る、禪と名づく。善知識よ、何をか禪定と名づくる。外相を離るるを禪と為し、內亂れざるを定と為す。外若し相に著せば、內心即ち亂る。外若し相を離るれば、心即ち亂れず。本性は自ら淨く自ら定まる。只だ境を見て境を思ふが為に即ち亂る。若し諸境を見て心亂れざる者は、是れ真の定なり。善知識よ、外相を離るれば即ち禪、內亂れざれば即ち定。外禪內定、是れを禪定と為す。菩薩戒經に云く、「我が本元の自性は清淨なり」と。善知識よ、念念の中に於て、自ら本性の清淨なるを見て、自ら修し自ら行じ、自ら佛道を成ぜよ。
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『六祖壇経』定慧品第四師眾に示して云く、善知識よ、我が此の法門は、定慧を以て本と為す。大眾迷ふこと勿れ。定慧別なりと言ふも、定慧は一體にして、二に是らず。定は是れ慧の體、慧は是れ定の用なり。即ち慧の時、定は慧に在り、即ち定の時、慧は定に在り。若し此の義を識らば、即ち是れ定慧等學なり。諸の學道の人よ、先づ定ありて慧を發し、先づ慧ありて定を發すと各別に言ふこと莫かれ。此の見を作す者は、法に二相有り。口に善語を説くも、心中不善なれば、空しく定慧有るのみにして、定慧等しからず。若し心口俱に善く、內外一種なれば、定慧即ち等し。
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『六祖壇経』頓漸品第八時に、祖師は曹渓の宝林に居り、神秀大師は荊南の玉泉寺に在り。時に両宗盛んに化し、人皆「南能北秀」と称す。故に南北二宗、頓漸の分有りて、学者は宗趣を知る莫し。
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『六祖壇経』坐禅品第五師、衆に示して云く、「此の門の坐禅は、元(もと)心に著(じゃく)せず、亦た浄に著せず、亦た是れ不動ならず。若し心に著すと言はば、心は元是れ妄なり、心の幻の如くなるを知る、故に著する所無きなり。若し浄に著すと言はば、人の性は本浄なり、妄念に由るが故に、真如を蓋覆す、但だ妄想無ければ、性自ら清浄なり。心を起して浄に著すれば、却つて浄妄を生ず、妄は処所無し、著する者は是れ妄なり。浄は形相無きに、却つて浄相を立てて、是れ工夫なりと言ふ。此の見を作す者は、自らの本性を障へ、却つて浄に縛せらる。吾が偈を聴け。曰く、真禅は本相無し、動静両つながら立たず。外一切の境を離るれば、内の妄自然に息む。独坐は禅定に非ず、心を起せば即ち是れ執なり。無住にして清浄を生ず、如来は是くの如く集む。定中の枯に滞ること勿れ、慧中の纏に落つることを免れよ。双融して縛する所無く、去ること無く亦た来ること無し。若し此の法門に入らば、当下に真禅に入らん」と。
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『六祖壇経』頓漸品第八師曰く、「汝が師の戒定慧は、大乘の人を接す。吾が戒定慧は、最上乘の人を接す。悟解同じからず、見に遲疾有り。汝吾が説を聽け、彼と同じきや否や。吾が説く所の法は、自性を離れず。體を離れて法を説く、名づけて相説と為す。自性常に迷ふ。須らく知るべし、一切の萬法は、皆な自性より起用す、是れ真の戒定慧の法なりと。吾が偈を聽け」と曰く、『心地に非無きは自性の戒、心地に痴無きは自性の慧、心地に亂無きは自性の定。增さず減らざるは自ら金剛、身去り身來るも本と三昧なり。』
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