六祖壇経 / 定慧品第四
善知識!我此法門,從上以來,先立無念為宗,無相為體,無住為本。無相者:於相而離相;無念者:於念而無念;無住者:人之本性,於世間善惡好醜,乃至冤之與親,言語觸刺欺爭之時,並將為空,不思酬害,念念之中,不思前境。若前念、今念、後念,念念相續不斷,名為系縛。於諸法上,念念不住,即無縛也。此是以無住為本。
新字:善知識!我此法門,従上以来,先立無念為宗,無相為体,無住為本。無相者:於相而離相;無念者:於念而無念;無住者:人之本性,於世間善悪好醜,乃至冤之与親,言語触刺欺争之時,並将為空,不思酬害,念念之中,不思前境。若前念、今念、後念,念念相続不断,名為系縛。於諸法上,念念不住,即無縛也。此是以無住為本。
書き下し
善知識よ、我が此の法門は、上より已來、先づ無念を立てて宗と為し、無相を體と為し、無住を本と為す。無相とは、相に於て相を離る。無念とは、念に於て念無し。無住とは、人の本性、世間の善惡好醜、乃至ち冤と親と、言語觸刺欺爭の時に於て、並びに將に空と為し、酬害を思はず、念念の中に、前境を思はず。若し前念・今念・後念、念念相續して斷えざれば、系縛と名づく。諸法の上に於て、念念に住せざる、即ち縛無きなり。此れは是れ無住を以て本と為すなり。
現代語訳
善知識よ、私のこの法門は、昔から、まず無念を立てて宗とし、無相を体とし、無住を本とする。無相とは、姿かたちの中にあってそれを離れること。無念とは、思いの中にあって思いがないこと。無住とは、人の本性が、世間の善悪や美醜、さらには敵と親しい者、言葉で刺され欺かれ争うときに、それらをみな空と見て、報復を思わず、思いの一つ一つの中に、過ぎた場面を思わないことである。もし前の念、今の念、後の念が、次々に続いて断たれなければ、それを縛られているという。あらゆるものの上で、思いの一つ一つがとどまらない、それが縛られていないということだ。これが無住を本とするということである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『六祖壇経』定慧品第四善知識、外一切の相を離るるを、名づけて無相と為す。能く相を離るれば、即ち法体清浄なり。此れ是れ無相を以て体と為す。善知識、諸境の上に於て心染まらざるを、無念と曰ふ。自らの念の上に於て常に諸境を離れ、境の上に於て心を生ぜず。若し只だ百物思はず、念尽く除却せば、一念絶ゆれば即ち死して、別処に生を受く。是れ大錯と為す。道を学ぶ者之を思へ。若し法の意を識らずんば、自ら錯るは猶ほ可なるも、更に他人に勧め、自ら迷ひて見ず、又仏経を謗る。所以に無念を立てて宗と為す。善知識、云何が無念を立てて宗と為す。只だ口に見性を説くも、迷人は境の上に念有り、念の上に便ち邪見を起し、一切の塵労妄想、此より生ずるに縁る。自性には本一法の得べき無し。若し所得有りて、妄りに禍福を説かば、即ち是れ塵労邪見なり。故に此の法門は、無念を立てて宗と為す。善知識、無とは何事を無みし、念とは何物を念ずる。無とは、二相無く、諸の塵労の心無きなり。念とは、真如の本性を念ずるなり。真如は即ち是れ念の体、念は即ち是れ真如の用なり。真如自性より念を起す、眼耳鼻舌の能く念ずるに非ず。真如に性有り、所以に念を起す。真如若し無くば、眼耳色声、当時に即ち壊れん。善知識、真如自性より念を起し、六根に見聞覚知有りと雖も、万境に染まらずして、真性常に自在なり。故に経に云ふ、能く善く諸法の相を分別すれども、第一義に於て動かず、と。
-
『六祖壇経』般若品第二善知識よ、智慧もて觀照すれば、內外明徹にして、自らの本心を識る。若し本心を識らば、即ち本と解脫なり。若し解脫を得ば、即ち是れ般若三昧なり。般若三昧は即ち是れ無念なり。何をか無念と名づくる。若し一切の法を見るも、心染著せざる、是れを無念と為す。用ゐれば即ち一切處に遍きも、亦た一切處に著せず。但だ本心を淨くして、六識をして六門を出でしめ、六塵の中に於て、染無く雜無く、來去自由、通用滯り無からしむ。即ち是れ般若三昧、自在解脫、無念行と名づく。若し百物を思はず、當に念をして絕えしむれば、即ち是れ法縛なり、即ち邊見と名づく。
-
『六祖壇経』坐禅品第五師、衆に示して云く、「此の門の坐禅は、元(もと)心に著(じゃく)せず、亦た浄に著せず、亦た是れ不動ならず。若し心に著すと言はば、心は元是れ妄なり、心の幻の如くなるを知る、故に著する所無きなり。若し浄に著すと言はば、人の性は本浄なり、妄念に由るが故に、真如を蓋覆す、但だ妄想無ければ、性自ら清浄なり。心を起して浄に著すれば、却つて浄妄を生ず、妄は処所無し、著する者は是れ妄なり。浄は形相無きに、却つて浄相を立てて、是れ工夫なりと言ふ。此の見を作す者は、自らの本性を障へ、却つて浄に縛せらる。吾が偈を聴け。曰く、真禅は本相無し、動静両つながら立たず。外一切の境を離るれば、内の妄自然に息む。独坐は禅定に非ず、心を起せば即ち是れ執なり。無住にして清浄を生ず、如来は是くの如く集む。定中の枯に滞ること勿れ、慧中の纏に落つることを免れよ。双融して縛する所無く、去ること無く亦た来ること無し。若し此の法門に入らば、当下に真禅に入らん」と。
-
『六祖壇経』定慧品第四師眾に示して云く、善知識よ、我が此の法門は、定慧を以て本と為す。大眾迷ふこと勿れ。定慧別なりと言ふも、定慧は一體にして、二に是らず。定は是れ慧の體、慧は是れ定の用なり。即ち慧の時、定は慧に在り、即ち定の時、慧は定に在り。若し此の義を識らば、即ち是れ定慧等學なり。諸の學道の人よ、先づ定ありて慧を發し、先づ慧ありて定を發すと各別に言ふこと莫かれ。此の見を作す者は、法に二相有り。口に善語を説くも、心中不善なれば、空しく定慧有るのみにして、定慧等しからず。若し心口俱に善く、內外一種なれば、定慧即ち等し。
-
『六祖壇経』坐禅品第五善知識よ、若し不動を修する者は、但だ一切の人を見る時、人の是非善惡過患を見ざる、即ち是れ自性不動なり。善知識よ、迷人は身動かずと雖も、口を開けば便ち他人の是非長短好惡を説く。道と違背す。若し心に著し淨に著せば、即ち道を障ふるなり。師眾に示して云く、善知識よ、何をか坐禪と名づくる。此の法門の中に、障無く礙無し。外一切の善惡の境界に於て、心念起こらざる、坐と名づく。內に自性の不動なるを見る、禪と名づく。善知識よ、何をか禪定と名づくる。外相を離るるを禪と為し、內亂れざるを定と為す。外若し相に著せば、內心即ち亂る。外若し相を離るれば、心即ち亂れず。本性は自ら淨く自ら定まる。只だ境を見て境を思ふが為に即ち亂る。若し諸境を見て心亂れざる者は、是れ真の定なり。善知識よ、外相を離るれば即ち禪、內亂れざれば即ち定。外禪內定、是れを禪定と為す。菩薩戒經に云く、「我が本元の自性は清淨なり」と。善知識よ、念念の中に於て、自ら本性の清淨なるを見て、自ら修し自ら行じ、自ら佛道を成ぜよ。
-
『六祖壇経』般若品第二善知識、無念の法を悟る者は、万法尽く通ず。無念の法を悟る者は、諸仏の境界を見る。無念の法を悟る者は、仏の地位に至る。善知識、後代に吾が法を得る者、此の頓教の法門を将て、同見同行に於て、発願受持し、仏に事ふるが如くするが故に、終身退かざる者は、定んで聖位に入らん。然して須らく上より以来の、黙伝分付を伝授すべし。其の正法を匿すことを得ず。若し同見同行ならずして、別法の中に在らば、伝付することを得ず。彼の前人を損じ、究竟益無し。恐らくは愚人解せずして、此の法門を謗り、百劫千生、仏の種性を断ぜん。善知識、吾に一の無相頌有り。各須らく誦取すべし。在家も出家も、但だ此に依りて修せよ。若し自ら修せず、惟だ吾が言を記するのみならば、亦益有ること無し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る