六祖壇経 / 定慧品第四
自悟修行,不在於諍;若諍先後,即同迷人。不斷勝負,卻增我法,不離四相。善知識!定慧猶如何等?猶如燈光。有燈即光,無燈即暗;燈是光之體,光是燈之用。名雖有二,體本同一。此定慧法,亦復如是。
新字:自悟修行,不在於諍;若諍先後,即同迷人。不断勝負,却增我法,不離四相。善知識!定慧猶如何等?猶如灯光。有灯即光,無灯即暗;灯是光之体,光是灯之用。名雖有二,体本同一。此定慧法,亦復如是。
書き下し
自ら悟りて修行するは、諍ひに在らず。若し先後を諍はば、即ち迷人に同じ。勝負を断たずんば、却つて我法を増し、四相を離れず。善知識、定慧は猶ほ何等の如きぞ。猶ほ灯光の如し。灯有れば即ち光あり、灯無ければ即ち暗し。灯は是れ光の体、光は是れ灯の用なり。名は二有りと雖も、体は本同一なり。此の定慧の法も、亦復た是の如し。
現代語訳
自ら悟って修行することは、言い争いにあるのではない。もし定と慧のどちらが先かを争うなら、それは迷った人と同じだ。勝ち負けを競う心を断たなければ、かえって自我への執着と法への執着を増やし、四相(我・人・衆生・寿者という四つのとらわれ)を離れられない。善知識よ、定と慧は何にたとえられるか。灯火とその光のようなものだ。灯火があれば光があり、灯火がなければ暗い。灯火は光の本体であり、光は灯火の働きである。名前は二つあっても、本体はもともと一つである。この定と慧の法もまた同じである。
解説
定慧品の中心をなす「灯と光」のたとえを含む段である。定は心を静める禅定、慧は物事を見抜く智慧で、従来は定を修めてから慧が生じるという順序で説かれることが多かった。慧能はこれを退け、灯が光の本体で光が灯の働きであるように、定と慧は体と用の関係にあって本来一つだと言う。どちらが先かを争うこと自体が勝ち負けへの執着であり、迷いだという指摘も鋭い。定慧一体は、坐禅と日常の働きを切り離さない南宗禅の特徴である。仕事でも、落ち着きと判断力は別々に鍛えるものではない。冷静さがあってこそ判断が生き、判断が確かだからこそ心が落ち着く。
関連する章句
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『六祖壇経』定慧品第四師眾に示して云く、善知識よ、我が此の法門は、定慧を以て本と為す。大眾迷ふこと勿れ。定慧別なりと言ふも、定慧は一體にして、二に是らず。定は是れ慧の體、慧は是れ定の用なり。即ち慧の時、定は慧に在り、即ち定の時、慧は定に在り。若し此の義を識らば、即ち是れ定慧等學なり。諸の學道の人よ、先づ定ありて慧を發し、先づ慧ありて定を發すと各別に言ふこと莫かれ。此の見を作す者は、法に二相有り。口に善語を説くも、心中不善なれば、空しく定慧有るのみにして、定慧等しからず。若し心口俱に善く、內外一種なれば、定慧即ち等し。
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『六祖壇経』頓漸品第八師曰く、「汝が師の戒定慧は、大乘の人を接す。吾が戒定慧は、最上乘の人を接す。悟解同じからず、見に遲疾有り。汝吾が説を聽け、彼と同じきや否や。吾が説く所の法は、自性を離れず。體を離れて法を説く、名づけて相説と為す。自性常に迷ふ。須らく知るべし、一切の萬法は、皆な自性より起用す、是れ真の戒定慧の法なりと。吾が偈を聽け」と曰く、『心地に非無きは自性の戒、心地に痴無きは自性の慧、心地に亂無きは自性の定。增さず減らざるは自ら金剛、身去り身來るも本と三昧なり。』
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『六祖壇経』懺悔品第六『一に戒香。即ち自心の中に非無く、惡無く、嫉妒無く、貪嗔無く、劫害無き、戒香と名づく。二に定香。即ち諸の善惡の境相を睹るも、自心亂れざる、定香と名づく。三に慧香。自心礙無く、常に智慧を以て、自性を觀照し、諸惡を造らず、眾善を修すと雖も、心執著せず、上を敬ひ下を念ひ、孤貧を矜恤する、慧香と名づく。四に解脫香。即ち自心攀緣する所無く、善を思はず、惡を思はず、自在無礙なる、解脫香と名づく。五に解脫知見香。自心既に攀緣する所も善惡も無くば、空に沉み寂を守るべからず。即ち須らく廣く學び多く聞き、自らの本心を識り、諸佛の理に達し、光を和らげ物に接し、我無く人無く、直ちに菩提に至るまで、真性易はらざる、解脫知見香と名づく』と。
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『六祖壇経』坐禅品第五善知識よ、若し不動を修する者は、但だ一切の人を見る時、人の是非善惡過患を見ざる、即ち是れ自性不動なり。善知識よ、迷人は身動かずと雖も、口を開けば便ち他人の是非長短好惡を説く。道と違背す。若し心に著し淨に著せば、即ち道を障ふるなり。師眾に示して云く、善知識よ、何をか坐禪と名づくる。此の法門の中に、障無く礙無し。外一切の善惡の境界に於て、心念起こらざる、坐と名づく。內に自性の不動なるを見る、禪と名づく。善知識よ、何をか禪定と名づくる。外相を離るるを禪と為し、內亂れざるを定と為す。外若し相に著せば、內心即ち亂る。外若し相を離るれば、心即ち亂れず。本性は自ら淨く自ら定まる。只だ境を見て境を思ふが為に即ち亂る。若し諸境を見て心亂れざる者は、是れ真の定なり。善知識よ、外相を離るれば即ち禪、內亂れざれば即ち定。外禪內定、是れを禪定と為す。菩薩戒經に云く、「我が本元の自性は清淨なり」と。善知識よ、念念の中に於て、自ら本性の清淨なるを見て、自ら修し自ら行じ、自ら佛道を成ぜよ。
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『六祖壇経』坐禅品第五師、衆に示して云く、「此の門の坐禅は、元(もと)心に著(じゃく)せず、亦た浄に著せず、亦た是れ不動ならず。若し心に著すと言はば、心は元是れ妄なり、心の幻の如くなるを知る、故に著する所無きなり。若し浄に著すと言はば、人の性は本浄なり、妄念に由るが故に、真如を蓋覆す、但だ妄想無ければ、性自ら清浄なり。心を起して浄に著すれば、却つて浄妄を生ず、妄は処所無し、著する者は是れ妄なり。浄は形相無きに、却つて浄相を立てて、是れ工夫なりと言ふ。此の見を作す者は、自らの本性を障へ、却つて浄に縛せらる。吾が偈を聴け。曰く、真禅は本相無し、動静両つながら立たず。外一切の境を離るれば、内の妄自然に息む。独坐は禅定に非ず、心を起せば即ち是れ執なり。無住にして清浄を生ず、如来は是くの如く集む。定中の枯に滞ること勿れ、慧中の纏に落つることを免れよ。双融して縛する所無く、去ること無く亦た来ること無し。若し此の法門に入らば、当下に真禅に入らん」と。
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『六祖壇経』定慧品第四師、衆に示して云ふ、善知識、道は須らく通流すべし、何を以てか却つて滞る。心、法に住せざれば、道即ち通流す。心若し法に住すれば、名づけて自縛と為す。若し常に坐して動かざるを是と言はば、只だ舎利弗の林中に宴坐して、却つて維摩詰に訶せられしが如し。善知識、又人有り、坐して心を看、静を観じ、動かず起たざるを教へ、此より功を置かしむ。迷人は会せず、便ち執して顛を成す。此の如き者衆し。是の如く相教ふ、故に知る、大いに錯れることを。師、衆に示して云ふ、善知識、本来の正教には、頓漸有ること無し。人の性に自ら利鈍有り。迷人は漸修し、悟人は頓契す。自ら本心を識り、自ら本性を見れば、即ち差別無し。所以に頓漸の仮名を立つ。
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