六祖壇経 / 疑問品第三
若欲修行,在家亦得,不由在寺。在家能行,如東方人心善;在寺不修,如西方人心惡,但心清淨,即是自性西方。』韋公又問:『在家如何修行,願為教授。』師言:『吾與大眾,作無相頌,但依此修,常與吾同處無別。若不作此修,剃髮出家,於道何益?頌曰:
新字:若欲修行,在家亦得,不由在寺。在家能行,如東方人心善;在寺不修,如西方人心悪,但心清浄,即是自性西方。』韋公又問:『在家如何修行,願為教授。』師言:『吾与大衆,作無相頌,但依此修,常与吾同処無別。若不作此修,剃髪出家,於道何益?頌曰:
書き下し
若し修行せんと欲せば、在家も亦得たり、寺に在るに由らず。在家にて能く行ぜば、東方の人の心善なるが如く、寺に在りて修せずんば、西方の人の心悪なるが如し。但だ心清浄なれば、即ち是れ自性の西方なり」と。韋公又問ふ、「在家にて如何が修行せん。願はくは為に教授したまへ」と。師言ふ、「吾、大衆の与に無相頌を作らん。但だ此に依りて修せば、常に吾と同処にして別無し。若し此の修を作さずんば、剃髪出家すとも、道に於て何の益かあらん。頌に曰く、
現代語訳
もし修行しようと思うなら、在家でもできる。寺にいるかどうかによるのではない。在家でよく行えば、東方の人でも心が善いようなものであり、寺にいても修めなければ、西方の人でも心が悪いようなものだ。ただ心が清らかであれば、それが自らの本性の西方浄土である」。韋公はまた問うた。「在家ではどのように修行すればよいのか。どうか教えていただきたい」。大師は言った。「私は皆のために無相頌を作ろう。ただこれに依って修めれば、いつも私と同じ所にいるのと何の違いもない。もしこの修行をしないなら、髪を剃って出家しても、道において何の益があろうか。頌に言う。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』疑問品第三「心平らかなれば何ぞ戒を持つを勞せん。行直ければ何ぞ禪を修むるを用ゐん。 恩は則ち父母を孝養し、義は則ち上下相ひ憐れむ。 讓は則ち尊卑和睦し、忍は則ち眾惡喧しきこと無し。 若し能く木を鑽りて火を出ださば、淤泥に定めて紅蓮を生ぜん。 口に苦きは的ち是れ良藥、耳に逆らふは必ず是れ忠言。 過ちを改むれば必ず智慧を生じ、短を護れば心內に賢に非ず。 日用に常に饒益を行ぜよ、道を成すは錢を施すに由るに非ず。 菩提は只だ心に向かひて覓めよ、何ぞ外に向かひて玄を求むるを勞せん。 説を聽きて此に依りて修行せば、西方は只だ目前に在り。」 師復た曰く、『善知識よ、總て須らく偈に依りて修行し、自性を見取して、直ちに佛道を成ずべし。法は相ひ待たず。眾人且く散ぜよ。吾れ曹溪に歸らん。眾若し疑有らば、卻きて來りて相ひ問へ』と。
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『六祖壇経』懺悔品第六「吾に一の無相頌有り、若し能く誦持せば、言下に汝が積劫の迷罪をして、一時に消滅せしめん。頌に曰く、『迷人は福を修して道を修せず、只だ福を修するを便ち是れ道と言ふ。布施供養は福辺無けれども、心中の三悪は元来造る。福を修して罪を滅せんと擬将すれども、後世に福を得て罪還つて在り。但だ心中に向ひて罪縁を除け、各自性の中の真の懺悔なり。忽ち大乗の真の懺悔を悟らば、邪を除き正を行じて即ち罪無し。道を学ぶには常に自性に於て観ぜよ、即ち諸仏と同一類なり。吾が祖は唯だ此の頓法を伝ふ、普く願はくは見性して同一体ならんことを。若し当来に法身を覓めんと欲せば、諸法の相を離れて心中に洗へ。努力して自ら見よ悠悠たること莫れ、後念忽ち絶えなば一世休す。若し大乗を悟らば見性することを得ん、虔恭合掌して至心に求めよ』」。師言はく、「善知識、総て須らく誦取し、此れに依りて修行すべし。言下に見性せば、吾を去ること千里なりと雖も、常に吾が辺に在るが如し。此の言下に於て悟らずんば、即ち対面すとも千里なり、何ぞ勤めて遠く来らん。珍重、好し去れ」と。一衆法を聞きて、開悟せざるは靡く、歓喜して奉行す。
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『六祖壇経』疑問品第三師言く、『使君善く聽け、惠能與に説かん。世尊舍衛城中に在りて、西方引化を説く。經文分明にして、此を去ること遠からず。若し相を論じて里數を説かば十萬八千有り。即ち身中の十惡八邪、便ち是れ遠しと説く。遠しと説くは、其の下根の為なり。近しと説くは、其の上智の為なり。人に兩種有るも、法に兩般無し。迷悟殊有り、見に遲疾有り。迷人は佛を念じて、彼に生ぜんことを求む。悟人は自ら其の心を淨くす。所以に佛言はく、「其の心の淨きに隨ひて、即ち佛土淨し」と。使君は東方の人なるも、但だ心淨ければ即ち罪無し。西方の人と雖も、心淨からざれば亦た愆有り。東方の人罪を造れば、佛を念じて西方に生ぜんことを求む。西方の人罪を造らば、佛を念じて何れの國に生ぜんことを求めん。凡愚は自性を了せず、身中の淨土を識らず、東を願ひ西を願ふ。悟人は在る處一般なり。所以に佛言はく、「住する所に隨ひて、恆に安樂なり」と。使君の心地、但だ不善無くば、西方此を去ること遙かならず。若し不善の心を懷かば、佛を念じて往生すること到り難し』と。
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『六祖壇経』疑問品第三時に刺史・官僚、会に在る善男信女、各開悟することを得て、信受奉行す。
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『六祖壇経』般若品第二吾が頌を聴け、曰く、説通及び心通は、日の虚空に処するが如し。唯だ見性の法を伝へ、世に出でて邪宗を破す。法には即ち頓漸無し、迷悟に遅疾有り。只だ此の見性の門、愚人は悉くすべからず。説くことは即ち万般なりと雖も、理に合すれば還た一に帰す。煩悩の暗宅の中、常に須らく慧日を生ずべし。邪来れば煩悩至り、正来れば煩悩除く。邪正倶に用ひざれば、清浄にして無余に至る。菩提は本自性なり、心を起せば即ち是れ妄なり。浄心は妄の中に在り、但だ正しければ三障無し。世人若し道を修せば、一切尽く妨げず。常に自ら己が過を見れば、道と即ち相当る。色類自ら道有り、各相妨げ悩まさず。道を離れて別に道を覓むれば、終生道を見ず。波波として一生を度り、到頭(つまるところ)還た自ら懊む。真道を見んと欲得せば、正を行ずる即ち是れ道なり。自ら若し道心無くば、闇に行きて道を見ず。若し真に修道の人ならば、世間の過を見ず。若し他人の非を見ば、自らの非却つて是れ左(たが)ふ。他は非なるも我は非とせず、我が非は自ら過有り。但だ自ら非心を却(しりぞ)け、煩悩を打除して破れ。憎愛心に関せず、長く両脚を伸べて臥す。他人を化せんと擬欲せば、自ら須らく方便有るべし。彼をして疑ひ有らしむること勿れ、即ち是れ自性現ず。仏法は世間に在り、世間を離れずして覚る。世を離れて菩提を覓むるは、恰も兎角を求むるが如し。正見を出世と名づけ、邪見を世間と名づく。邪正尽く打却すれば、菩提の性宛然たり。此の頌は是れ頓教、亦大法船と名づく。迷ひて聞けば経ること累劫、悟れば則ち刹那の間なり。師復た曰く、「今大梵寺に於て此の頓教を説く。普く願はくは法界の衆生、言下に見性成仏せんことを」と。時に韋使君と官僚道俗、師の説く所を聞きて、省悟せざる無し。一時に礼を作し、皆善き哉と嘆ず。何ぞ期せん、嶺南に仏有りて世に出でんとは。
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『驢鞍橋』卷上一日去る者問ふ。同し位の人にして僧と俗とは何れか修行の為めに是ならんや。師答て曰く、大すうを云はば出家は諸手打、在家は片手打也。在家は道を障ふる縁多し、出家は碍ふる縁少し。然れども今時の出家衆は、皆仏法嫌ひ也、俗の半分も道にすく人なし、其上機だらりとして不義心多し。扨侍は主を持つ機に張合ひあり、亦天然と死を守る心有り、結句今時は修行は俗かする也。乍去大真実の人にしては出家の人徳大也。
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