六祖壇経 / 疑問品第三
師言:『使君善聽,惠能與說。世尊在舍衛城中,說西方引化,經文分明去此不遠。若論相說里數有十萬八千,即身中十惡八邪,便是說遠。說遠,為其下根;說近,為其上智。人有兩種,法無兩般;迷悟有殊,見有遲疾。迷人念佛,求生於彼;悟人自淨其心。所以佛言:「隨其心淨,即佛土淨。」使君東方人,但心淨即無罪;雖西方人,心不淨亦有愆。東方人造罪,念佛求生西方;西方人造罪,念佛求生何國?凡愚不了自性,不識身中淨土,願東願西,悟人在處一般。所以佛言:「隨所住處,恆安樂。」使君心地,但無不善,西方去此不遙;若懷不善之心,念佛往生難到。』
新字:師言:『使君善聴,恵能与説。世尊在舎衛城中,説西方引化,経文分明去此不遠。若論相説里数有十万八千,即身中十悪八邪,便是説遠。説遠,為其下根;説近,為其上智。人有両種,法無両般;迷悟有殊,見有遅疾。迷人念仏,求生於彼;悟人自浄其心。所以仏言:「随其心浄,即仏土浄。」使君東方人,但心浄即無罪;雖西方人,心不浄亦有愆。東方人造罪,念仏求生西方;西方人造罪,念仏求生何国?凡愚不了自性,不識身中浄土,願東願西,悟人在処一般。所以仏言:「随所住処,恒安楽。」使君心地,但無不善,西方去此不遥;若懐不善之心,念仏往生難到。』
書き下し
師言く、『使君善く聽け、惠能與に説かん。世尊舍衛城中に在りて、西方引化を説く。經文分明にして、此を去ること遠からず。若し相を論じて里數を説かば十萬八千有り。即ち身中の十惡八邪、便ち是れ遠しと説く。遠しと説くは、其の下根の為なり。近しと説くは、其の上智の為なり。人に兩種有るも、法に兩般無し。迷悟殊有り、見に遲疾有り。迷人は佛を念じて、彼に生ぜんことを求む。悟人は自ら其の心を淨くす。所以に佛言はく、「其の心の淨きに隨ひて、即ち佛土淨し」と。使君は東方の人なるも、但だ心淨ければ即ち罪無し。西方の人と雖も、心淨からざれば亦た愆有り。東方の人罪を造れば、佛を念じて西方に生ぜんことを求む。西方の人罪を造らば、佛を念じて何れの國に生ぜんことを求めん。凡愚は自性を了せず、身中の淨土を識らず、東を願ひ西を願ふ。悟人は在る處一般なり。所以に佛言はく、「住する所に隨ひて、恆に安樂なり」と。使君の心地、但だ不善無くば、西方此を去ること遙かならず。若し不善の心を懷かば、佛を念じて往生すること到り難し』と。
現代語訳
慧能は言った。「使君よ、よく聴きなさい、慧能がお話ししましょう。世尊は舎衛城で西方(浄土)へ導く教えを説かれた。経文は明らかで、ここから遠くはない。もし姿かたちで論じて距離を説けば十万八千の隔たりがある。それは身の中の十悪八邪のことで、だから遠いと説くのだ。遠いと説くのは機根の低い者のため、近いと説くのは上の智慧の者のためである。人には二種あるが、法に二通りはない。迷いと悟りに違いがあり、見えかたに遅い速いがあるだけだ。迷う人は仏を念じてかの地に生まれることを求め、悟った人は自分の心を清らかにする。だから仏は『その心が清らかであれば、仏土も清らかだ』と言われた。使君は東方の人だが、心が清らかなら罪はない。西方の人であっても、心が清らかでなければ過ちはある。東方の人が罪を造れば、仏を念じて西方に生まれることを求める。では西方の人が罪を造れば、仏を念じてどの国に生まれることを求めるのか。凡愚は自性を悟らず、身の中の浄土を知らず、東を願い西を願う。悟った人はどこにいても同じである。だから仏は『住む所どこにあっても、常に安楽である』と言われた。使君の心に不善がなければ、西方はここから遠くない。もし不善の心を抱いていれば、仏を念じても往生することは難しい」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『六祖壇経』疑問品第三「今善知識に勧む、先づ十悪を除けば、即ち十万を行き、後に八邪を除けば、乃ち八千を過ぐ。念念に見性し、常に平直を行ぜば、到ること弾指の如く、便ち弥陀に親しまん。使君但だ十善を行ぜば、何ぞ須らく更に往生を願ふべき。十悪の心を断ぜずんば、何の仏か即ち来りて迎請せん。若し無生の頓法を悟らば、西方を見ること只だ刹那に在り。悟らずして念仏して生ぜんことを求むれば、路遥かにして如何ぞ達することを得ん。恵能、諸人の与に西方を刹那の間に移し、目前に便ち見せしめん。各見んことを願ふや否や」と。衆皆頂礼して云ふ、「若し此処にて見ば、何ぞ須らく更に往生を願ふべき。願はくは和尚慈悲もて、便ち西方を現じ、普く見ることを得しめたまへ」と。師言ふ、「大衆、世人の自らの色身は是れ城、眼耳鼻舌は是れ門なり。外に五門有り、内に意門有り。心は是れ地、性は是れ王なり。王は心地の上に居す。性在れば王在り、性去れば王無し。性在れば身心存し、性去れば身心壊る。仏は性中に向ひて作(な)せ、身外に向ひて求むること莫かれ。自性迷へば即ち是れ衆生、自性覚れば即ち是れ仏なり。慈悲は即ち是れ観音、喜捨は名づけて勢至と為す。能く浄むるは即ち釈迦、平直は即ち弥陀なり。人我は是れ須弥、邪心は是れ海水、煩悩は是れ波浪、毒害は是れ悪龍、虚妄は是れ鬼神、塵労は是れ魚鰲、貪嗔は是れ地獄、愚痴は是れ畜生なり」と。「善知識、常に十善を行ぜば、天堂便ち至る。人我を除けば、須弥倒れ、邪心を去れば、海水竭き、煩悩無ければ、波浪滅し、毒害忘るれば、魚龍絶ゆ。自心の地上に、覚性の如来ありて、大光明を放ち、外は六門を照らして清浄ならしめ、能く六欲の諸天を破す。自性内に照らせば、三毒即ち除かれ、地獄等の罪、一時に消滅し、内外明徹にして、西方に異ならず。此の修を作さずんば、如何ぞ彼に到らん」と。大衆説くを聞きて、了然として見性し、悉皆礼拝し、倶に善き哉と嘆じ、唱へて言ふ、「普く願はくは法界の衆生、聞く者一時に悟解せんことを」と。師言ふ、「善知識、
-
『六祖壇経』疑問品第三刺史又問ひて曰く、「弟子常に見る、僧俗の阿弥陀仏を念じて、西方に生ぜんと願ふを。請ふ和尚説きたまへ、彼に生ずることを得るや否や。願はくは為に疑ひを破りたまへ」と。
-
『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段益を獲ざること莫しと。これに因りて見れば、一切衆生に、心の濁り乱るゝ者多く、正念の者は少きゆへに、衆生の心を、一筋に向はしめん為に、西方を極楽と指して教ふとの玉ふこと、明白なり。然れば、極楽を西方と教へ玉ふは、愚痴の者に説き玉ふ法にて、上知の教は、十方仏土なること明なり。師範と成る者は、別して味はふべき所なり。愚痴なれば、先づ我往くべき道を知らず。我往生を知らずして、他を導くべき所にあらず。扠如来の説法と云ふは、直に南無阿弥陀仏と知るべし。如何となれば、口に唱ふる南無阿弥陀仏が耳に入り、一遍の念仏にては、一念の悪を消し、二遍の念仏にては、二念の悪を消す。悪念死して善心生るなれば、これ即ち往生なり。往生に三義を立つる中に、
-
『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段曰く、然らば汝は、段々伝へ来る大事を、みな偽りと云ひ、非法するは如何なることぞ。答ふ、何ぞ理なく他を非法すべき。念仏宗に云ふは、西方極楽へ往生し、彼の国に至りて、如来の説法を聞きて、悟りを開き、成仏するとの教なり。汝如き人の導師と成る者は、此所を能々工夫して、開くべき所なり。仏氏にて云ふときは、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、本来東西無し、何処にか南北有らんと。此の如くなれば、彼の国と云ふは、唯心の浄土と云ふことに決定せり。浄土と云ふも、我心のことなり。普広菩薩仏に白して言さく、世尊、十方仏土、皆厳浄たり。何の故に諸経の中に、偏へに西方阿弥陀仏国を歎じて往生を勧むるやと。仏普広菩薩に告げたまはく、一切衆生濁乱の者多く、正念の者少なし。衆生をして心を専らにして在る所有らしめんと欲す。是の故に彼の国を讃歎して別異と為すのみ。若し能く願に依りて脩行すれば、
-
『六祖壇経』疑問品第三若し修行せんと欲せば、在家も亦得たり、寺に在るに由らず。在家にて能く行ぜば、東方の人の心善なるが如く、寺に在りて修せずんば、西方の人の心悪なるが如し。但だ心清浄なれば、即ち是れ自性の西方なり」と。韋公又問ふ、「在家にて如何が修行せん。願はくは為に教授したまへ」と。師言ふ、「吾、大衆の与に無相頌を作らん。但だ此に依りて修せば、常に吾と同処にして別無し。若し此の修を作さずんば、剃髪出家すとも、道に於て何の益かあらん。頌に曰く、
-
『六祖壇経』疑問品第三時に刺史・官僚、会に在る善男信女、各開悟することを得て、信受奉行す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る