六祖壇経 / 般若品第二
譬如雨水,不從天有,元是龍能興緻,令一切眾生,一切草木,有情無情,悉皆蒙潤,百川眾流,卻入大海,合為一體。眾生本性般若之智,亦復如是。善知識,小根之人,聞此頓教,猶如草木,根性小者,若被大雨,悉皆自倒,不能增長。小根之人,亦復如是。元有般若之智,與大智人更無差別。因何聞法不自開悟?緣邪見障重,煩惱根深。猶如大雲覆蓋於日,不得風吹,日光不現。般若之智,亦無大小,為一切眾生,自心迷悟不同。迷心外見,修行覓佛,未悟自性,即是小根。若開悟頓教,不執外修,但於自心,常起正見,煩惱塵勞,常不能染,即是見性。善知識,內外不住,去來自由,能除執心,通達無礙,能修此行,與《般若經》本無差別。善知識,一切修多羅及諸文字、大小二乘、十二部經,皆因人置。因智慧性,方能建立。若無世人,一切萬法本自不有,故知萬法本自人興。一切經書,因人說有。緣其人中,有愚有智。愚為小人,智為大人。愚者問於智人,智者為愚人說法。愚人忽然悟解心開,即與智人無別。善知識,不悟,即佛是眾生,一念悟時,眾生是佛。故知萬法盡在自心,何不從心中頓見真如本性?《菩薩戒經》云:『我本元自性清淨,若識自心見性,皆成佛道』《淨名經》云:『即時豁然,還得本心。』
新字:譬如雨水,不従天有,元是竜能興緻,令一切衆生,一切草木,有情無情,悉皆蒙潤,百川衆流,却入大海,合為一体。衆生本性般若之智,亦復如是。善知識,小根之人,聞此頓教,猶如草木,根性小者,若被大雨,悉皆自倒,不能增長。小根之人,亦復如是。元有般若之智,与大智人更無差別。因何聞法不自開悟?縁邪見障重,煩悩根深。猶如大雲覆蓋於日,不得風吹,日光不現。般若之智,亦無大小,為一切衆生,自心迷悟不同。迷心外見,修行覓仏,未悟自性,即是小根。若開悟頓教,不執外修,但於自心,常起正見,煩悩塵労,常不能染,即是見性。善知識,内外不住,去来自由,能除執心,通達無礙,能修此行,与《般若経》本無差別。善知識,一切修多羅及諸文字、大小二乗、十二部経,皆因人置。因智慧性,方能建立。若無世人,一切万法本自不有,故知万法本自人興。一切経書,因人説有。縁其人中,有愚有智。愚為小人,智為大人。愚者問於智人,智者為愚人説法。愚人忽然悟解心開,即与智人無別。善知識,不悟,即仏是衆生,一念悟時,衆生是仏。故知万法尽在自心,何不従心中頓見真如本性?《菩薩戒経》云:『我本元自性清浄,若識自心見性,皆成仏道』《浄名経》云:『即時豁然,還得本心。』
書き下し
譬へば雨水は天より有るにあらず、元是れ龍能く興致して、一切衆生、一切草木、有情無情をして、悉皆潤ひを蒙らしめ、百川衆流、却つて大海に入り、合して一体と為るが如し。衆生本性の般若の智も、亦復た是の如し。善知識、小根の人、此の頓教を聞くこと、猶ほ草木の根性小なる者の、若し大雨を被れば、悉皆自ら倒れて、増長すること能はざるが如し。小根の人も亦復た是の如し。元般若の智有りて、大智の人と更に差別無し。何に因りてか法を聞きて自ら開悟せざる。邪見の障重く、煩悩の根深きに縁る。猶ほ大雲の日を覆蓋して、風の吹くを得ざれば、日光現ぜざるが如し。般若の智も亦大小無し。一切衆生の自心の迷悟同じからざるが為なり。迷心にて外に見て、修行して仏を覓め、未だ自性を悟らざる、即ち是れ小根なり。若し頓教を開悟して、外修に執せず、但だ自心に於て常に正見を起さば、煩悩塵労も常に染むること能はず、即ち是れ見性なり。善知識、内外に住せず、去来自由にして、能く執心を除き、通達して礙(さはり)無し。能く此の行を修せば、般若経と本差別無し。善知識、一切の修多羅及び諸の文字、大小の二乗、十二部経は、皆人に因りて置く。智慧の性に因りて、方に能く建立す。若し世人無くば、一切の万法本自ら有らず。故に知る、万法は本人より興ることを。一切の経書は、人に因りて有りと説く。其の人の中に縁りて、愚有り智有り。愚は小人為り、智は大人為り。愚者は智人に問ひ、智者は愚人の為に法を説く。愚人忽然として悟解し心開けば、即ち智人と別無し。善知識、悟らざれば即ち仏も是れ衆生、一念悟る時は衆生も是れ仏なり。故に知る、万法は尽く自心に在ることを。何ぞ心中より頓に真如本性を見ざる。菩薩戒経に云ふ、『我が本元自性清浄なり。若し自心を識り見性せば、皆仏道を成ず』と。浄名経に云ふ、『即時に豁然として、還た本心を得』と。
現代語訳
たとえば雨水は天にもともとあるのではなく、もとは龍が起こすもので、すべての生きもの、すべての草木、心あるものもないものも、みな潤いを受け、多くの川の流れはやがて大海に入って一つになる。生きものの本性にある般若の智慧も、これと同じである。善知識よ、素質の小さい人がこの頓教を聞くのは、根の小さい草木が大雨を浴びると、みな自ら倒れて伸びることができないのと同じだ。素質の小さい人もまたそうである。もとは般若の智慧を持っていて、大いなる智慧の人と何の違いもない。それなのに、なぜ法を聞いて自ら悟れないのか。邪な見解の障りが重く、煩悩の根が深いからである。ちょうど大きな雲が太陽を覆い、風が吹かなければ日の光が現れないようなものだ。般若の智慧にも大小はない。すべての生きものの心の迷いと悟りが同じでないだけである。迷った心で外に目を向け、修行して仏を探し求め、まだ自らの本性を悟っていない者、それが素質の小さい人である。もし頓教に目覚めて、外に向けた修行に執着せず、ただ自らの心においていつも正しい見方を起こすなら、煩悩や塵労もいつまでも染めることはできない。それが見性である。善知識よ、内にも外にもとどまらず、行き来が自由で、執着する心を除き、通じ達して妨げがない。この行を修めることができれば、『般若経』と少しも違いはない。善知識よ、すべての経典や諸々の文字、大乗と小乗の二つの教え、十二部経(経典の十二の分類)は、みな人のために設けられたものだ。智慧の本性があってこそ打ち立てることができる。もし世の人がいなければ、あらゆるものはもともと存在しない。だから、あらゆるものはもともと人から起こると知るのである。すべての経書は人のために説かれている。その人の中に愚かな者と智慧ある者がいるからだ。愚かな者は小人であり、智慧ある者は大人である。愚かな者は智慧ある人に問い、智慧ある者は愚かな人のために法を説く。愚かな人も、ふと悟って心が開ければ、智慧ある人と何の違いもない。善知識よ、悟らなければ仏も衆生であり、一念悟った時には衆生も仏である。だから、あらゆるものはすべて自らの心の中にあると知るのだ。どうして心の中から一挙に真如の本性を見ないのか。『菩薩戒経』に「私の本来の本性はもともと清らかである。もし自らの心を知り本性を見れば、みな仏道を成し遂げる」とある。『浄名経』(維摩経)に「たちまちからりと開けて、本来の心を取り戻した」とある。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』般若品第二善知識、迷人は口に念じ、念ずる時に当りて、妄有り非有り。念念に若し行ぜば、是れを真性と名づく。此の法を悟る者は、是れ般若の法なり。此の行を修する者は、是れ般若の行なり。修せざれば即ち凡なり。一念修行すれば、自身仏に等し。善知識、凡夫即ち仏、煩悩即ち菩提なり。前念迷へば即ち凡夫、後念悟れば即ち仏なり。前念境に著すれば即ち煩悩、後念境を離るれば即ち菩提なり。善知識、摩訶般若波羅蜜は、最尊最上最第一なり。住無く往無く亦来無し、三世の諸仏、中より出づ。当に大智慧を用ひて、五蘊の煩悩塵労を打破すべし。此の如く修行せば、定んで仏道を成じ、三毒を変じて戒定慧と為す。善知識、我が此の法門は、一般若より八万四千の智慧を生ず。何を以ての故に。世人に八万四千の塵労有るが為なり。若し塵労無くば、智慧常に現じ、自性を離れず。此の法を悟る者は、即ち是れ無念・無憶・無著なり。誑妄を起さず、自らの真如の性を用ひ、智慧を以て観照し、一切法に於て取らず捨てず。即ち是れ見性して仏道を成ずるなり。善知識、若し甚深の法界、及び般若三昧に入らんと欲せば、須らく般若の行を修すべし。金剛般若経を持誦せば、即ち見性することを得。当に知るべし、此の経の功徳は無量無辺にして、経中に分明に讃歎す、具さに説く能はず。此の法門は是れ最上乗、大智の人の為に説き、上根の人の為に説く。小智小根の人は聞きて、心に不信を生ず。何を以ての故に。譬へば天龍の閻浮提に雨を下すに、城邑聚落、悉皆漂流して、草葉を漂はすが如し。若し大海に雨ふらせば、増さず減らず。若し大乗の人、若し最上乗の人は、金剛経を説くを聞きて、心開け悟解するが故に、本性に自ら般若の智有るを知り、自ら智慧を用ひて、常に観照するが故に、文字を仮らず。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、我れ忍和尚の處に於て、一たび聞くや言下に便ち開悟し、頓に真如の本性を見る。是を以て此の教法を將て流行し、學道の者をして頓に菩提を悟り、各自に心を觀じ、自ら本性を見せしむ。若し自ら悟らずんば、大善知識の最上乘の法を解する者を覓めて、直ちに正路を示さしむるを須ゐよ。是れ善知識に大因緣有り。所謂る化導して見性を得しむ。一切の善法は、善知識に因りて能く發起するが故なり。三世の諸佛、十二部經は、人の性中に在りて本より自ら具有す。自ら悟る能はずんば、須らく善知識の指示を求めて方に見るべし。若し自ら悟る者は、外に求むるを假らず。若し一向に執して『他の善知識を須ゐて、解脫を得んことを望む』と謂ふ者は、是の處有ること無し。何を以ての故に。自心の內に有り、知識ありて自ら悟ればなり。若し邪迷を起こし、妄念顛倒せば、外の善知識に教授有りと雖も、救ふこと得べからず。若し真正の般若觀照を起こさば、一剎那の間に、妄念俱に滅す。若し自性を識らば、一悟すれば即ち佛地に至る。
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『六祖壇経』般若品第二次の日、韋使君、益を請ふ。師、坐に升りて大衆に告げて曰く、「総て心を浄めて摩訶般若波羅蜜多を念ぜよ」と。復た云ふ、「善知識、菩提般若の智は、世人本自(もと)より之有り。只だ心迷ふに縁りて、自ら悟ること能はず。須らく大善知識の示導を仮りて見性すべし。当に知るべし、愚人も智人も、仏性本差別無し。只だ迷悟同じからざるに縁りて、所以に愚有り智有り。吾今為に摩訶般若波羅蜜の法を説き、汝等をして各智慧を得しめん。志心に諦聴せよ、吾汝が為に説かん。
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『六祖壇経』般若品第二吾が頌を聴け、曰く、説通及び心通は、日の虚空に処するが如し。唯だ見性の法を伝へ、世に出でて邪宗を破す。法には即ち頓漸無し、迷悟に遅疾有り。只だ此の見性の門、愚人は悉くすべからず。説くことは即ち万般なりと雖も、理に合すれば還た一に帰す。煩悩の暗宅の中、常に須らく慧日を生ずべし。邪来れば煩悩至り、正来れば煩悩除く。邪正倶に用ひざれば、清浄にして無余に至る。菩提は本自性なり、心を起せば即ち是れ妄なり。浄心は妄の中に在り、但だ正しければ三障無し。世人若し道を修せば、一切尽く妨げず。常に自ら己が過を見れば、道と即ち相当る。色類自ら道有り、各相妨げ悩まさず。道を離れて別に道を覓むれば、終生道を見ず。波波として一生を度り、到頭(つまるところ)還た自ら懊む。真道を見んと欲得せば、正を行ずる即ち是れ道なり。自ら若し道心無くば、闇に行きて道を見ず。若し真に修道の人ならば、世間の過を見ず。若し他人の非を見ば、自らの非却つて是れ左(たが)ふ。他は非なるも我は非とせず、我が非は自ら過有り。但だ自ら非心を却(しりぞ)け、煩悩を打除して破れ。憎愛心に関せず、長く両脚を伸べて臥す。他人を化せんと擬欲せば、自ら須らく方便有るべし。彼をして疑ひ有らしむること勿れ、即ち是れ自性現ず。仏法は世間に在り、世間を離れずして覚る。世を離れて菩提を覓むるは、恰も兎角を求むるが如し。正見を出世と名づけ、邪見を世間と名づく。邪正尽く打却すれば、菩提の性宛然たり。此の頌は是れ頓教、亦大法船と名づく。迷ひて聞けば経ること累劫、悟れば則ち刹那の間なり。師復た曰く、「今大梵寺に於て此の頓教を説く。普く願はくは法界の衆生、言下に見性成仏せんことを」と。時に韋使君と官僚道俗、師の説く所を聞きて、省悟せざる無し。一時に礼を作し、皆善き哉と嘆ず。何ぞ期せん、嶺南に仏有りて世に出でんとは。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、智慧もて觀照すれば、內外明徹にして、自らの本心を識る。若し本心を識らば、即ち本と解脫なり。若し解脫を得ば、即ち是れ般若三昧なり。般若三昧は即ち是れ無念なり。何をか無念と名づくる。若し一切の法を見るも、心染著せざる、是れを無念と為す。用ゐれば即ち一切處に遍きも、亦た一切處に著せず。但だ本心を淨くして、六識をして六門を出でしめ、六塵の中に於て、染無く雜無く、來去自由、通用滯り無からしむ。即ち是れ般若三昧、自在解脫、無念行と名づく。若し百物を思はず、當に念をして絕えしむれば、即ち是れ法縛なり、即ち邊見と名づく。
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『六祖壇経』般若品第二善知識、吾が空を説くを聞きて、便ち即ち空に著すること莫かれ。第一に空に著すること莫かれ。若し心を空しくして静坐せば、即ち無記空に著す。善知識、世界の虚空は、能く万物の色像を含む。日月星宿、山河大地、泉源渓澗、草木叢林、悪人善人、悪法善法、天堂地獄、一切の大海、須弥の諸山、総て空中に在り。世人の性の空なるも、亦復た是の如し。善知識、自性能く万法を含む、是れ大なり。万法は諸人の性中に在り。若し一切人の悪と善とを見て、尽く皆取らず捨てず、亦染著せず、心虚空の如くなる、之を名づけて大と為す。故に摩訶と曰ふ。善知識、迷人は口に説き、智者は心に行ふ。又迷人有り、心を空しくして静坐し、百に思ふ所無く、自ら称して大と為す。此の一輩の人は、与に語るべからず、邪見為るが故なり。善知識、心量広大にして、法界に遍周す。用ふれば即ち了了分明にして、応用すれば便ち一切を知る。一切即一、一即一切なり。来去自由にして、心体滞ること無き、即ち是れ般若なり。善知識、一切の般若の智は、皆自性より生じ、外より入らず。意を錯り用ふること莫かれ。名づけて真性の自用と為す。一真なれば一切真なり。心量は大事なり、小道を行ぜず。口に終日空を説きて、心中に此の行を修せざること莫かれ。恰も凡人の自ら国王と称するが似(ごと)し、終に得べからず。吾が弟子に非ず。
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