六祖壇経 / 般若品第二
次日,韋使君請益。師升坐,告大眾曰:「總淨心念摩訶般若波羅蜜多。」復云:「善知識,菩提般若之智,世人本自有之,只緣心迷,不能自悟,須假大善知識,示導見性。當知愚人智人,佛性本無差別,只緣迷悟不同,所以有愚有智。吾今為說摩訶般若波羅蜜法,使汝等各得智慧。志心諦聽,吾為汝說。
新字:次日,韋使君請益。師升坐,告大衆曰:「総浄心念摩訶般若波羅蜜多。」復云:「善知識,菩提般若之智,世人本自有之,只縁心迷,不能自悟,須仮大善知識,示導見性。当知愚人智人,仏性本無差別,只縁迷悟不同,所以有愚有智。吾今為説摩訶般若波羅蜜法,使汝等各得智慧。志心諦聴,吾為汝説。
書き下し
次の日、韋使君、益を請ふ。師、坐に升りて大衆に告げて曰く、「総て心を浄めて摩訶般若波羅蜜多を念ぜよ」と。復た云ふ、「善知識、菩提般若の智は、世人本自(もと)より之有り。只だ心迷ふに縁りて、自ら悟ること能はず。須らく大善知識の示導を仮りて見性すべし。当に知るべし、愚人も智人も、仏性本差別無し。只だ迷悟同じからざるに縁りて、所以に愚有り智有り。吾今為に摩訶般若波羅蜜の法を説き、汝等をして各智慧を得しめん。志心に諦聴せよ、吾汝が為に説かん。
現代語訳
翌日、韋使君(韋刺史)がさらに教えを請うた。大師は座に上り、人々に告げた。「皆、心を清らかにして摩訶般若波羅蜜多(大いなる智慧の完成)を念じよ」。さらに言った。「善知識(道を共にする人々)よ、悟りの智慧である般若の智は、世の人がもともと持っているものだ。ただ心が迷っているために自ら悟ることができず、すぐれた善知識の導きを借りて本性を見なければならない。知っておくがよい。愚かな人も智慧ある人も、仏性にはもともと何の差もない。ただ迷いと悟りが違うために、愚かな人と智慧ある人がいるのだ。私は今、摩訶般若波羅蜜の法を説いて、おまえたち一人ひとりに智慧を得させよう。心を込めてよく聞け。私がおまえたちのために説こう。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』般若品第二譬へば雨水は天より有るにあらず、元是れ龍能く興致して、一切衆生、一切草木、有情無情をして、悉皆潤ひを蒙らしめ、百川衆流、却つて大海に入り、合して一体と為るが如し。衆生本性の般若の智も、亦復た是の如し。善知識、小根の人、此の頓教を聞くこと、猶ほ草木の根性小なる者の、若し大雨を被れば、悉皆自ら倒れて、増長すること能はざるが如し。小根の人も亦復た是の如し。元般若の智有りて、大智の人と更に差別無し。何に因りてか法を聞きて自ら開悟せざる。邪見の障重く、煩悩の根深きに縁る。猶ほ大雲の日を覆蓋して、風の吹くを得ざれば、日光現ぜざるが如し。般若の智も亦大小無し。一切衆生の自心の迷悟同じからざるが為なり。迷心にて外に見て、修行して仏を覓め、未だ自性を悟らざる、即ち是れ小根なり。若し頓教を開悟して、外修に執せず、但だ自心に於て常に正見を起さば、煩悩塵労も常に染むること能はず、即ち是れ見性なり。善知識、内外に住せず、去来自由にして、能く執心を除き、通達して礙(さはり)無し。能く此の行を修せば、般若経と本差別無し。善知識、一切の修多羅及び諸の文字、大小の二乗、十二部経は、皆人に因りて置く。智慧の性に因りて、方に能く建立す。若し世人無くば、一切の万法本自ら有らず。故に知る、万法は本人より興ることを。一切の経書は、人に因りて有りと説く。其の人の中に縁りて、愚有り智有り。愚は小人為り、智は大人為り。愚者は智人に問ひ、智者は愚人の為に法を説く。愚人忽然として悟解し心開けば、即ち智人と別無し。善知識、悟らざれば即ち仏も是れ衆生、一念悟る時は衆生も是れ仏なり。故に知る、万法は尽く自心に在ることを。何ぞ心中より頓に真如本性を見ざる。菩薩戒経に云ふ、『我が本元自性清浄なり。若し自心を識り見性せば、皆仏道を成ず』と。浄名経に云ふ、『即時に豁然として、還た本心を得』と。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、我れ忍和尚の處に於て、一たび聞くや言下に便ち開悟し、頓に真如の本性を見る。是を以て此の教法を將て流行し、學道の者をして頓に菩提を悟り、各自に心を觀じ、自ら本性を見せしむ。若し自ら悟らずんば、大善知識の最上乘の法を解する者を覓めて、直ちに正路を示さしむるを須ゐよ。是れ善知識に大因緣有り。所謂る化導して見性を得しむ。一切の善法は、善知識に因りて能く發起するが故なり。三世の諸佛、十二部經は、人の性中に在りて本より自ら具有す。自ら悟る能はずんば、須らく善知識の指示を求めて方に見るべし。若し自ら悟る者は、外に求むるを假らず。若し一向に執して『他の善知識を須ゐて、解脫を得んことを望む』と謂ふ者は、是の處有ること無し。何を以ての故に。自心の內に有り、知識ありて自ら悟ればなり。若し邪迷を起こし、妄念顛倒せば、外の善知識に教授有りと雖も、救ふこと得べからず。若し真正の般若觀照を起こさば、一剎那の間に、妄念俱に滅す。若し自性を識らば、一悟すれば即ち佛地に至る。
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『六祖壇経』般若品第二善知識、迷人は口に念じ、念ずる時に当りて、妄有り非有り。念念に若し行ぜば、是れを真性と名づく。此の法を悟る者は、是れ般若の法なり。此の行を修する者は、是れ般若の行なり。修せざれば即ち凡なり。一念修行すれば、自身仏に等し。善知識、凡夫即ち仏、煩悩即ち菩提なり。前念迷へば即ち凡夫、後念悟れば即ち仏なり。前念境に著すれば即ち煩悩、後念境を離るれば即ち菩提なり。善知識、摩訶般若波羅蜜は、最尊最上最第一なり。住無く往無く亦来無し、三世の諸仏、中より出づ。当に大智慧を用ひて、五蘊の煩悩塵労を打破すべし。此の如く修行せば、定んで仏道を成じ、三毒を変じて戒定慧と為す。善知識、我が此の法門は、一般若より八万四千の智慧を生ず。何を以ての故に。世人に八万四千の塵労有るが為なり。若し塵労無くば、智慧常に現じ、自性を離れず。此の法を悟る者は、即ち是れ無念・無憶・無著なり。誑妄を起さず、自らの真如の性を用ひ、智慧を以て観照し、一切法に於て取らず捨てず。即ち是れ見性して仏道を成ずるなり。善知識、若し甚深の法界、及び般若三昧に入らんと欲せば、須らく般若の行を修すべし。金剛般若経を持誦せば、即ち見性することを得。当に知るべし、此の経の功徳は無量無辺にして、経中に分明に讃歎す、具さに説く能はず。此の法門は是れ最上乗、大智の人の為に説き、上根の人の為に説く。小智小根の人は聞きて、心に不信を生ず。何を以ての故に。譬へば天龍の閻浮提に雨を下すに、城邑聚落、悉皆漂流して、草葉を漂はすが如し。若し大海に雨ふらせば、増さず減らず。若し大乗の人、若し最上乗の人は、金剛経を説くを聞きて、心開け悟解するが故に、本性に自ら般若の智有るを知り、自ら智慧を用ひて、常に観照するが故に、文字を仮らず。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、世人終日、口に般若を念ずるも、自性の般若を識らず。猶ほ食を説きて飽かざるがごとし。口に但だ空を説くのみなれば、萬劫にも見性を得ず、終に益有ること無し。善知識よ、摩訶般若波羅蜜は是れ梵語なり。此に大智慧到彼岸と言ふ。此れは須らく心に行ずべく、口に念ずるに在らず。口に念じて心に行ぜざれば、幻の如く化の如く、露の如く電の如し。口に念じ心に行ずれば、則ち心口相應ず。本性は是れ佛、性を離れて別の佛無し。何をか摩訶と名づくる。摩訶は是れ大なり。心量廣大にして、猶ほ虛空のごとく、邊畔有ること無く、亦た方圓大小無く、亦た青黃赤白に非ず、亦た上下長短無く、亦た嗔無く喜無く、是無く非無く、善無く惡無く、頭尾有ること無し。諸佛の剎土、盡く虛空に同じ。世人の妙性は本と空、一法の得べき有ること無し。自性の真空も、亦復た是くの如し。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、何をか般若と名づくる。般若とは、唐言に智慧なり。一切の處所、一切の時中、念念に愚ならず、常に智慧を行ずる、即ち是れ般若行なり。一念愚なれば、即ち般若絕え、一念智なれば、即ち般若生ず。世人は愚迷にして、般若を見ず。口に般若を説くも、心中常に愚なり。常に自ら「我れ般若を修す」と言ひ、念念に空を説くも、真空を識らず。般若に形相無し、智慧の心即ち是れなり。若し是くの如き解を作さば、即ち般若智と名づく。何をか「波羅蜜」と名づくる。此れは是れ西國の語、唐言に到彼岸なり。義を解すれば生滅を離る。境に著すれば生滅起こる、水に波浪有るが如し、即ち此岸と名づく。境を離るれば生滅無し、水の常に通流するが如し、即ち彼岸と名づく。故に波羅蜜と號す。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、智慧もて觀照すれば、內外明徹にして、自らの本心を識る。若し本心を識らば、即ち本と解脫なり。若し解脫を得ば、即ち是れ般若三昧なり。般若三昧は即ち是れ無念なり。何をか無念と名づくる。若し一切の法を見るも、心染著せざる、是れを無念と為す。用ゐれば即ち一切處に遍きも、亦た一切處に著せず。但だ本心を淨くして、六識をして六門を出でしめ、六塵の中に於て、染無く雜無く、來去自由、通用滯り無からしむ。即ち是れ般若三昧、自在解脫、無念行と名づく。若し百物を思はず、當に念をして絕えしむれば、即ち是れ法縛なり、即ち邊見と名づく。
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