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驢鞍橋 / 卷下

巳の六月十二日の晩、示して曰く、昔より僧俗に付き道者多しといへども、皆佛法知に成りた計にて、世法萬事に使ふと云ふことを云ひたる人一人もなし。有りもこそせんずが、今迄終に聞かす、大略我が云ひ始かと覺ゆる也。扨て又日本の僧俗、或は頌を作り歌を詠み、名頌の道歌の抔と云ふこと多し。是れ慰み佛法と云ふ物也。又或はなにと問ふたれば、なにと答へり、好き答話也と、人貴きことに思へば、自らも佛法と思ふて、醜句の樣なことを云ふ者有り、是れでき口佛法と云ふ物也。その外今時の邪解□を知らず。向上佛法、さび佛法、活達佛法、だて佛法、悟佛法、へで佛法、此の外樣々の私し佛法多しといへとも、皆是れ病也。我曾て好ます。我は朝から晩迄、きつと果眼に成て居るが好き也。我も如是勤め、人にも如是敎ゆを佛法修行とす。我法は果眼佛法也。

新字:巳の六月十二日の晩、示して曰く、昔より僧俗に付き道者多しといへども、皆仏法知に成りた計にて、世法万事に使ふと云ふことを云ひたる人一人もなし。有りもこそせんずが、今迄終に聞かす、大略我が云ひ始かと覚ゆる也。扨て又日本の僧俗、或は頌を作り歌を詠み、名頌の道歌の抔と云ふこと多し。是れ慰み仏法と云ふ物也。又或はなにと問ふたれば、なにと答へり、好き答話也と、人貴きことに思へば、自らも仏法と思ふて、醜句の様なことを云ふ者有り、是れでき口仏法と云ふ物也。その外今時の邪解□を知らず。向上仏法、さび仏法、活達仏法、だて仏法、悟仏法、へで仏法、此の外様々の私し仏法多しといへとも、皆是れ病也。我曽て好ます。我は朝から晩迄、きつと果眼に成て居るが好き也。我も如是勤め、人にも如是教ゆを仏法修行とす。我法は果眼仏法也。

書き下し

巳の六月十二日の晩、示して曰く、昔より僧俗に付き道者多しといへども、皆仏法知に成りた計にて、世法万事に使ふと云ふことを云ひたる人一人もなし。有りもこそせんずが、今迄終に聞かす、大略我が云ひ始かと覚ゆる也。扨て又日本の僧俗、或は頌を作り歌を詠み、名頌の道歌の抔と云ふこと多し。是れ慰み仏法と云ふ物也。又或はなにと問ふたれば、なにと答へり、好き答話也と、人貴きことに思へば、自らも仏法と思ふて、醜句の様なことを云ふ者有り、是れでき口仏法と云ふ物也。その外今時の邪解□を知らず。向上仏法、さび仏法、活達仏法、だて仏法、悟仏法、へで仏法、此の外様々の私し仏法多しといへとも、皆是れ病也。我曽て好ます。我は朝から晩迄、きつと果眼に成て居るが好き也。我も如是勤め、人にも如是教ゆを仏法修行とす。我法は果眼仏法也。

現代語訳

巳の年六月十二日の晩、示して言われた。昔から僧俗にわたって道者は多いけれども、みな仏法の知識人になっただけで、世法の万事に使うということを言った人は一人もいない。いたかもしれないが、今までついに聞いたことがない。おおよそ私が言い始めではないかと思う。さてまた、日本の僧俗は、あるいは頌を作り、歌を詠み、名頌だの道歌だのということが多い。これは慰み仏法というものである。またあるいは、何と問うたら何と答えた、良い答話だと、人が尊いことに思うので、自分も仏法だと思って、醜句のようなことを言う者がいる。これは出来口仏法というものである。そのほか、今どきの邪解は□を知らない。向上仏法、さび仏法、闊達仏法、伊達仏法、悟り仏法、屁で仏法、このほかさまざまな私の仏法が多いけれども、みなこれは病である。私はかつて好まない。私は朝から晩まで、きっと果たし眼になっているのがよい。私もこのように勤め、人にもこのように教えるのを仏法修行とする。私の法は果眼仏法である。

解説

仏法を世の中のあらゆる仕事に使うと言ったのは、自分が最初ではないか、と正三は言う。そして、歌や頌を詠む慰み仏法、気の利いた問答を真似る出来口仏法、さび仏法、伊達仏法、悟り仏法など、世に流行る自己流の仏法をすべて病だと切り捨てる。自分の法は、朝から晩まで決死の目つきで向き合う果眼仏法だ、と。趣味や教養、格好よさとしての修行を退け、生活の中で真剣に向き合うことを求める、正三の宣言である。

この章句が説くこと

果眼仏法世法慰み仏法職業即仏行真剣宣言

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