導師導古典を学びたいすべての人に

驢鞍橋 / 卷中

〇一、佛は萬德圓滿と也。然らは萬德の旨なくして修行する人は、佛弟子にあらす。願はくは萬徳を旨として修行したまへかしとの念願也、と云ふは、萬德は、使ふ樣に修せねは使はれぬ也。勇猛の機□する程に、次第に使はるゝ也。然る間、此の旨を守て修行せよとの念願也。畢竟萬德を使ふ事は、我を離るゝを躰とする也。〇一、佛寳、法寳、僧寳、是れを三寳と崇め奉る也。此の三寳を受て萬民に施し、國土の寳となすへき旨なくして修行する人は、僧に非す。願はくは三寳の旨を守て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、本心を佛寳とし、契ふを法寳とし、人に施すを僧寳とす、僧寳なけれは、佛法の二法は立たぬ也。然る間、萬民を安んし國土の寳となる樣に、眞の道を修行し給へかしとの念願也。修し樣は、何も前の萬德圓滿の筋一つ也。

新字:〇一、仏は万徳円満と也。然らは万徳の旨なくして修行する人は、仏弟子にあらす。願はくは万徳を旨として修行したまへかしとの念願也、と云ふは、万徳は、使ふ様に修せねは使はれぬ也。勇猛の機□する程に、次第に使はるゝ也。然る間、此の旨を守て修行せよとの念願也。畢竟万徳を使ふ事は、我を離るゝを体とする也。〇一、仏宝、法宝、僧宝、是れを三宝と崇め奉る也。此の三宝を受て万民に施し、国土の宝となすへき旨なくして修行する人は、僧に非す。願はくは三宝の旨を守て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、本心を仏宝とし、契ふを法宝とし、人に施すを僧宝とす、僧宝なけれは、仏法の二法は立たぬ也。然る間、万民を安んし国土の宝となる様に、真の道を修行し給へかしとの念願也。修し様は、何も前の万徳円満の筋一つ也。

書き下し

〇一、仏は万徳円満と也。然らは万徳の旨なくして修行する人は、仏弟子にあらす。願はくは万徳を旨として修行したまへかしとの念願也、と云ふは、万徳は、使ふ様に修せねは使はれぬ也。勇猛の機□する程に、次第に使はるゝ也。然る間、此の旨を守て修行せよとの念願也。畢竟万徳を使ふ事は、我を離るゝを体とする也。〇一、仏宝、法宝、僧宝、是れを三宝と崇め奉る也。此の三宝を受て万民に施し、国土の宝となすへき旨なくして修行する人は、僧に非す。願はくは三宝の旨を守て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、本心を仏宝とし、契ふを法宝とし、人に施すを僧宝とす、僧宝なけれは、仏法の二法は立たぬ也。然る間、万民を安んし国土の宝となる様に、真の道を修行し給へかしとの念願也。修し様は、何も前の万徳円満の筋一つ也。

現代語訳

一、「仏は万徳円満であるという。そうであれば、万徳を旨とせずに修行する人は仏弟子ではない。どうか万徳を旨として修行していただきたい、との念願である」というのは、万徳は、使えるように修めなければ使えないということである。勇猛の機を□するにつれて、次第に使えるようになる。だから、この旨を守って修行せよとの念願である。つまるところ、万徳を使うことは、我を離れることを本体とするのである。一、仏宝・法宝・僧宝、これを三宝と崇め奉る。「この三宝を受けて万民に施し、国土の宝とする旨がなくて修行する人は僧ではない。どうか三宝の旨を守って修行していただきたい、との念願である」というのは、本心を仏宝とし、それにかなうことを法宝とし、人に施すことを僧宝とする。僧宝がなければ、仏と法の二つは立たないのである。だから、万民を安んじ国土の宝となるように、真の道を修行していただきたいとの念願である。修め方は、どれも前の万徳円満の筋と一つである。

解説

念願の第二と第三を解いた部分である。正三は、仏の万徳は眺めるものではなく、使えるように修めて初めて使えるものだと言う。そしてその要は、我を離れることにあると明言する。三宝についても、本心を仏宝、それにかなうことを法宝、人に施すことを僧宝と読み替え、人に施す働きがなければ仏法そのものが立たないとした。どれほど立派な理念も、人の役に立つ形で差し出さなければ意味がない、という考え方は、仕事の価値を考えるうえでも示唆的である。

この章句が説くこと

万徳三宝我執僧宝念願

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る