驢鞍橋 / 卷中
一日人來り修行の念願の意を問ふ。師示めして曰く、一佛曰く、佛法は國王大臣有力の檀那に付屬すと說きたまへり。然らは公義の御下知なくしては、佛法正理なるへからずと書いたは、今時は佛の出世にても正理立ち難し。只御公義より下知あれは、忽ち正理に成る也。佛も是れに仍て國王大臣に付屬すと申し置かれたり。あはれあはれ、御下知に因て佛法正理になしたまへかしと乍恐念願に存し奉る也。もはや二百年に餘て、我朝の正法絕え果てり、扨て、是非に及はぬ次第也。此の段御訴訟申上度念願計也
新字:一日人来り修行の念願の意を問ふ。師示めして曰く、一仏曰く、仏法は国王大臣有力の檀那に付属すと説きたまへり。然らは公義の御下知なくしては、仏法正理なるへからずと書いたは、今時は仏の出世にても正理立ち難し。只御公義より下知あれは、忽ち正理に成る也。仏も是れに仍て国王大臣に付属すと申し置かれたり。あはれあはれ、御下知に因て仏法正理になしたまへかしと乍恐念願に存し奉る也。もはや二百年に余て、我朝の正法絶え果てり、扨て、是非に及はぬ次第也。此の段御訴訟申上度念願計也
書き下し
一日人来り修行の念願の意を問ふ。師示めして曰く、一仏曰く、仏法は国王大臣有力の檀那に付属すと説きたまへり。然らは公義の御下知なくしては、仏法正理なるへからずと書いたは、今時は仏の出世にても正理立ち難し。只御公義より下知あれは、忽ち正理に成る也。仏も是れに仍て国王大臣に付属すと申し置かれたり。あはれあはれ、御下知に因て仏法正理になしたまへかしと乍恐念願に存し奉る也。もはや二百年に余て、我朝の正法絶え果てり、扨て、是非に及はぬ次第也。此の段御訴訟申上度念願計也
現代語訳
ある日、人が来て「修行の念願」の意味を尋ねた。師が示して言われた。「一、仏は、仏法は国王・大臣・有力の檀那に付属すると説かれた。そうであれば、公儀のご下知がなくては仏法は正理とはならない」と書いたのは、今の世では仏がこの世に出られても正理は立ちがたいからである。ただ公儀から下知があれば、たちまち正理になる。仏もこのために、国王・大臣に付属すると言い置かれたのだ。ああ、どうかご下知によって仏法を正理にしていただきたいと、恐れながら念願しているのである。もはや二百年余りにわたって、わが国の正法は絶え果ててしまった。まったく、どうしようもない有様である。この段は、ご訴訟を申し上げたいという念願ばかりである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、我仏法興隆の御政道、御公儀へ訟へ奉り度思へども、未だ天道に不許、先つ先祖先達血の涙を流し、修し行し残し置かれたる処の仏法、御下知なき故に廃れ果り、是れを御捨てなされ、御外護に預からさる事、我等の迷惑是れにすぎす。兎角御下知無くては仏法正理なるべからす。偏に仏法正理なるやうに御下知仰き奉ると、指出□□御訴訟申上度事大願也。
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『驢鞍橋』卷中師便ち曰く、我八十年苦労せしかとも、誰ても聞く人なく、時に逢はす、只打くさる迄也。余りの悲しさに、今こそ見者なくとも末世に残し応縁の者を待たんと思ふて是れを書く也。又曰く、今時正法滅する故に、三宝の光失して、国土世界、無明の闇となる。扨て扨て笑止千万なる事哉。何とぞ御下知を以て、正法を立て国土を明かならしめんと思ふ也。今時は直に達磨の出世ありても、正法立ち難し。末世にては国王大臣に付属すと申し置かれたり。然るに付属と申し置かれたる処を捨おかれ、仏法はかり御政道に預らさる事迷惑の至り也。是非共正法建立の御下知仰き奉ると御訴訟申し上けんとの念願はかり也。
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『驢鞍橋』卷上然れとも如何にしても代り法門の筋無き事を仏法とし、我宗正伝の仏祖の語録を法度と有る事は余り非道の事に候間、申上ぐる儀也。奥意は此次でに、三百年以来錯り来る所の仏法を御下知に依り、正法に復さんとの所存也。是れは余り笑止千万の体に御坐候。仏も国王大臣有力の檀那に付属すと申し置かれたり。然る間諸宗を集め、聞手を立て、仏法の意趣を御吟味被遊、正理たるべき様に仰付奉頼と云ふへき也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏は万徳円満と也。然らは万徳の旨なくして修行する人は、仏弟子にあらす。願はくは万徳を旨として修行したまへかしとの念願也、と云ふは、万徳は、使ふ様に修せねは使はれぬ也。勇猛の機□する程に、次第に使はるゝ也。然る間、此の旨を守て修行せよとの念願也。畢竟万徳を使ふ事は、我を離るゝを体とする也。〇一、仏宝、法宝、僧宝、是れを三宝と崇め奉る也。此の三宝を受て万民に施し、国土の宝となすへき旨なくして修行する人は、僧に非す。願はくは三宝の旨を守て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、本心を仏宝とし、契ふを法宝とし、人に施すを僧宝とす、僧宝なけれは、仏法の二法は立たぬ也。然る間、万民を安んし国土の宝となる様に、真の道を修行し給へかしとの念願也。修し様は、何も前の万徳円満の筋一つ也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏法は成仏の法也。然れども成仏の心得に邪正有り。若し邪正の差別を知らすんは、皆以邪法なるへし。願はくは成仏の処に眼を著て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、成仏に毫釐の差別有り、諸宗共に分別の外に胸の開かると云ふ事を知らす。心地開るを成仏とす。此の邪正を能く心得て修すへき也。〇一、仏法修行は、三界出離の法也。故に出家と名く。若し三界出離の旨無くんは、出家に非す。願はくは三界出離の修行し給へかしとの念願也、と云ふは、離相離名を体として、三界出離の修行せよとの念願也と云ふは、心一つを滅する事也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏語に、世間に入得すれは、出世余り無しと説き給へり。此の文は世法にて成仏するの理也。然れは世法則ち仏法也。華厳に仏法は世間法に異ならず。世間法は仏法に異ならずと如此説き給へり。若し世法にて成仏する道理を用ゐざれは、一切仏意を知らさる人也、と云ふは、此の仏説の如くんは、世間を其の儘仏法に用ひすんは、仏法に非すと也。然る間、世法を仏法になし給へかしとの念願也。其の用には四民抔か好き也。殊に盲安杖天然と書き合はせたり。始めは世法に書き、後には成仏になしる理也。
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