驢鞍橋 / 卷中
第五、佛法修行は、邪欲の心を除滅す。玆に因て奢る心暗ふ心奢る心、名聞利養の心なし。此の心則ち渡世身すきに使ふ寳也と云ふは、今時錯て人皆佛法は世間身すきの用に立たぬものと思ふ故に、此の段を書く也。佛法といふは、萬々の邪欲の心を滅して、惡心が無い程にどこに居ても、さはりなく世を渡る也。皆へたに奢り、非分に欲をかはきて身を滅す也。大名も小名も是れによつて身代を沒する也。總して惡心ある者は、どこにあつても住みにくきものぞと也。
新字:第五、仏法修行は、邪欲の心を除滅す。玆に因て奢る心暗ふ心奢る心、名聞利養の心なし。此の心則ち渡世身すきに使ふ宝也と云ふは、今時錯て人皆仏法は世間身すきの用に立たぬものと思ふ故に、此の段を書く也。仏法といふは、万々の邪欲の心を滅して、悪心が無い程にどこに居ても、さはりなく世を渡る也。皆へたに奢り、非分に欲をかはきて身を滅す也。大名も小名も是れによつて身代を没する也。総して悪心ある者は、どこにあつても住みにくきものぞと也。
書き下し
第五、仏法修行は、邪欲の心を除滅す。玆に因て奢る心暗ふ心奢る心、名聞利養の心なし。此の心則ち渡世身すきに使ふ宝也と云ふは、今時錯て人皆仏法は世間身すきの用に立たぬものと思ふ故に、此の段を書く也。仏法といふは、万々の邪欲の心を滅して、悪心が無い程にどこに居ても、さはりなく世を渡る也。皆へたに奢り、非分に欲をかはきて身を滅す也。大名も小名も是れによつて身代を没する也。総して悪心ある者は、どこにあつても住みにくきものぞと也。
現代語訳
第五に、「仏法の修行は、邪欲の心を除き滅ぼす。これによって、奢る心をはじめ、名誉や利得を求める心がなくなる。この心がすなわち渡世、つまり暮らしを立てるのに使う宝である」というのは、今の世では誤って、人は皆、仏法は世間で暮らしを立てる役には立たないものと思っているので、この段を書いたのである。仏法というのは、あらゆる邪欲の心を滅ぼして、悪心がないので、どこにいても障りなく世を渡っていけるものである。人は皆、下手に奢り、分不相応に欲を渇望して身を滅ぼす。大名も小名も、これによって身代を失うのである。総じて悪心のある者は、どこにいても住みにくいものだ、とのことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中第三、仏法修行は、我見を去り、自他無差別にして、六和合を用ひ、誠の心に到り、上四恩を報じ、下三有の衆生を度す、此の心則ち五倫の道正しく使ふ宝也と云ふは、仏法は五倫の道に欠けたと云ふ人あるに仍て、此の段を書く。仏法と云ふは、我を捨て無差別の心に到り、上四恩を報し、下一切衆生を度す、是れを五倫に欠けたりと云はんや。又一切衆生一子の如しとも説きたまへり。儒道には、やうやう五倫を至極とすと見えたり。第四、仏法修行は、慮知分別の心を去て、著相の念に離れ、無我の心に到て、私なく物に任せて自由也。此の心則ち諸芸能に使ふ宝也。是れらは上手芸の芸者は知るへし。殊に兵法者などは、一入能く知るへき也。
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『驢鞍橋』卷中第二、仏法修行は、禁戒を堅く守て、仏祖の教に背かす、邪僻曲折の心を退治し、善心となり、理非分明にして理をはなれ、無義の義を専ら用ひ、慈悲正直にして万民を度す、此の心便ち諸法度に使ふ宝也と云ふは、理も義も修し離れて、自ら理非分明にわかるなり。只心の発するに任せてなす程の事、皆法をこえす。是れ無義の義と云ふ也。然れ共慈悲心にして万民を度す。なにと此の諸法度に使はれましきや。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏法は成仏の法也。然れども成仏の心得に邪正有り。若し邪正の差別を知らすんは、皆以邪法なるへし。願はくは成仏の処に眼を著て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、成仏に毫釐の差別有り、諸宗共に分別の外に胸の開かると云ふ事を知らす。心地開るを成仏とす。此の邪正を能く心得て修すへき也。〇一、仏法修行は、三界出離の法也。故に出家と名く。若し三界出離の旨無くんは、出家に非す。願はくは三界出離の修行し給へかしとの念願也、と云ふは、離相離名を体として、三界出離の修行せよとの念願也と云ふは、心一つを滅する事也。
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『驢鞍橋』卷中先つ仏法と云ふは、六賊煩悩を打滅す事也。なに生々悪道ずきに成り居る身に添ふ□打取ことなる間、弱き心ではならぬ也。法身堅固の心とて是非にと思ふ心を強く定むへし。然らは信心起るへし。信心さへ強けれは、勇猛起るもの也。次きに精進心は起るもの也。爰に於て、ずだはこと□□と強く切払へは、切なる心、急なる心起るもの也。此の時夢中ともにぬけす、金剛心となり熟して内外打成一片となつて、内にも一念不生、外にも一塵碍る境界なく、業識無明の魔軍共を尽く打滅す也。然れ共是れまてはまだ夢中に打て取つた也。未だ実有は尽きぬず。ほつかと大夢醒め、はらりと実有破れ、生死を出て、一切を離れて大安楽に住する也。なにと此の心は武勇に使れましきや。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る処の小姓両人来り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是浅き処に身を捨習つて功を尽さは、如何様の処にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成仏也。
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