驢鞍橋 / 卷中
第三、佛法修行は、我見を去り、自他無差別にして、六和合を用ひ、誠の心に到り、上四恩を報じ、下三有の衆生を度す、此の心則ち五倫の道正しく使ふ寳也と云ふは、佛法は五倫の道に欠けたと云ふ人あるに仍て、此の段を書く。佛法と云ふは、我を捨て無差別の心に到り、上四恩を報し、下一切衆生を度す、是れを五倫に欠けたりと云はんや。又一切衆生一子の如しとも說きたまへり。儒道には、やうやう五倫を至極とすと見えたり。第四、佛法修行は、慮知分別の心を去て、著相の念に離れ、無我の心に到て、私なく物に任せて自由也。此の心則ち諸藝能に使ふ寳也。是れらは上手藝の藝者は知るへし。殊に兵法者などは、一入能く知るへき也。
新字:第三、仏法修行は、我見を去り、自他無差別にして、六和合を用ひ、誠の心に到り、上四恩を報じ、下三有の衆生を度す、此の心則ち五倫の道正しく使ふ宝也と云ふは、仏法は五倫の道に欠けたと云ふ人あるに仍て、此の段を書く。仏法と云ふは、我を捨て無差別の心に到り、上四恩を報し、下一切衆生を度す、是れを五倫に欠けたりと云はんや。又一切衆生一子の如しとも説きたまへり。儒道には、やうやう五倫を至極とすと見えたり。第四、仏法修行は、慮知分別の心を去て、著相の念に離れ、無我の心に到て、私なく物に任せて自由也。此の心則ち諸芸能に使ふ宝也。是れらは上手芸の芸者は知るへし。殊に兵法者などは、一入能く知るへき也。
書き下し
第三、仏法修行は、我見を去り、自他無差別にして、六和合を用ひ、誠の心に到り、上四恩を報じ、下三有の衆生を度す、此の心則ち五倫の道正しく使ふ宝也と云ふは、仏法は五倫の道に欠けたと云ふ人あるに仍て、此の段を書く。仏法と云ふは、我を捨て無差別の心に到り、上四恩を報し、下一切衆生を度す、是れを五倫に欠けたりと云はんや。又一切衆生一子の如しとも説きたまへり。儒道には、やうやう五倫を至極とすと見えたり。第四、仏法修行は、慮知分別の心を去て、著相の念に離れ、無我の心に到て、私なく物に任せて自由也。此の心則ち諸芸能に使ふ宝也。是れらは上手芸の芸者は知るへし。殊に兵法者などは、一入能く知るへき也。
現代語訳
第三に、「仏法の修行は、我見を去り、自他の差別をなくして六和合(僧団が和合する六つの法)を用い、誠の心に到って、上は四恩に報い、下は三界の衆生を救う。この心がすなわち五倫の道を正しく使う宝である」というのは、仏法は五倫の道に欠けていると言う人がいるので、この段を書いたのである。仏法というのは、我を捨てて差別のない心に到り、上は四恩に報い、下は一切衆生を救う。これを五倫に欠けていると言えようか。また、一切衆生をわが一人子のように思えとも説かれている。儒道では、せいぜい五倫を究極としているように見える。第四に、仏法の修行は、あれこれと思い巡らす分別の心を去り、形に執着する念を離れ、無我の心に到って、私心なく物事に任せて自由である。この心がすなわち諸々の芸能に使う宝である。これらは芸の上手な者なら知っているだろう。とりわけ兵法者などは、ひときわよく知っているはずである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷中第二、仏法修行は、禁戒を堅く守て、仏祖の教に背かす、邪僻曲折の心を退治し、善心となり、理非分明にして理をはなれ、無義の義を専ら用ひ、慈悲正直にして万民を度す、此の心便ち諸法度に使ふ宝也と云ふは、理も義も修し離れて、自ら理非分明にわかるなり。只心の発するに任せてなす程の事、皆法をこえす。是れ無義の義と云ふ也。然れ共慈悲心にして万民を度す。なにと此の諸法度に使はれましきや。
-
『驢鞍橋』卷中第五、仏法修行は、邪欲の心を除滅す。玆に因て奢る心暗ふ心奢る心、名聞利養の心なし。此の心則ち渡世身すきに使ふ宝也と云ふは、今時錯て人皆仏法は世間身すきの用に立たぬものと思ふ故に、此の段を書く也。仏法といふは、万々の邪欲の心を滅して、悪心が無い程にどこに居ても、さはりなく世を渡る也。皆へたに奢り、非分に欲をかはきて身を滅す也。大名も小名も是れによつて身代を没する也。総して悪心ある者は、どこにあつても住みにくきものぞと也。
-
『驢鞍橋』卷中〇一、仏法は成仏の法也。然れども成仏の心得に邪正有り。若し邪正の差別を知らすんは、皆以邪法なるへし。願はくは成仏の処に眼を著て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、成仏に毫釐の差別有り、諸宗共に分別の外に胸の開かると云ふ事を知らす。心地開るを成仏とす。此の邪正を能く心得て修すへき也。〇一、仏法修行は、三界出離の法也。故に出家と名く。若し三界出離の旨無くんは、出家に非す。願はくは三界出離の修行し給へかしとの念願也、と云ふは、離相離名を体として、三界出離の修行せよとの念願也と云ふは、心一つを滅する事也。
-
『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
-
『驢鞍橋』卷中〇一、仏は万徳円満と也。然らは万徳の旨なくして修行する人は、仏弟子にあらす。願はくは万徳を旨として修行したまへかしとの念願也、と云ふは、万徳は、使ふ様に修せねは使はれぬ也。勇猛の機□する程に、次第に使はるゝ也。然る間、此の旨を守て修行せよとの念願也。畢竟万徳を使ふ事は、我を離るゝを体とする也。〇一、仏宝、法宝、僧宝、是れを三宝と崇め奉る也。此の三宝を受て万民に施し、国土の宝となすへき旨なくして修行する人は、僧に非す。願はくは三宝の旨を守て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、本心を仏宝とし、契ふを法宝とし、人に施すを僧宝とす、僧宝なけれは、仏法の二法は立たぬ也。然る間、万民を安んし国土の宝となる様に、真の道を修行し給へかしとの念願也。修し様は、何も前の万徳円満の筋一つ也。
-
『驢鞍橋』卷中先つ仏法と云ふは、六賊煩悩を打滅す事也。なに生々悪道ずきに成り居る身に添ふ□打取ことなる間、弱き心ではならぬ也。法身堅固の心とて是非にと思ふ心を強く定むへし。然らは信心起るへし。信心さへ強けれは、勇猛起るもの也。次きに精進心は起るもの也。爰に於て、ずだはこと□□と強く切払へは、切なる心、急なる心起るもの也。此の時夢中ともにぬけす、金剛心となり熟して内外打成一片となつて、内にも一念不生、外にも一塵碍る境界なく、業識無明の魔軍共を尽く打滅す也。然れ共是れまてはまだ夢中に打て取つた也。未だ実有は尽きぬず。ほつかと大夢醒め、はらりと実有破れ、生死を出て、一切を離れて大安楽に住する也。なにと此の心は武勇に使れましきや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る