驢鞍橋 / 卷中
第二、佛法修行は、禁戒を堅く守て、佛祖の敎に背かす、邪僻曲折の心を退治し、善心となり、理非分明にして理をはなれ、無義の義を專ら用ひ、慈悲正直にして萬民を度す、此の心便ち諸法度に使ふ寳也と云ふは、理も義も修し離れて、自ら理非分明にわかるなり。只心の發するに任せてなす程の事、皆法をこえす。是れ無義の義と云ふ也。然れ共慈悲心にして萬民を度す。なにと此の諸法度に使はれましきや。
新字:第二、仏法修行は、禁戒を堅く守て、仏祖の教に背かす、邪僻曲折の心を退治し、善心となり、理非分明にして理をはなれ、無義の義を専ら用ひ、慈悲正直にして万民を度す、此の心便ち諸法度に使ふ宝也と云ふは、理も義も修し離れて、自ら理非分明にわかるなり。只心の発するに任せてなす程の事、皆法をこえす。是れ無義の義と云ふ也。然れ共慈悲心にして万民を度す。なにと此の諸法度に使はれましきや。
書き下し
第二、仏法修行は、禁戒を堅く守て、仏祖の教に背かす、邪僻曲折の心を退治し、善心となり、理非分明にして理をはなれ、無義の義を専ら用ひ、慈悲正直にして万民を度す、此の心便ち諸法度に使ふ宝也と云ふは、理も義も修し離れて、自ら理非分明にわかるなり。只心の発するに任せてなす程の事、皆法をこえす。是れ無義の義と云ふ也。然れ共慈悲心にして万民を度す。なにと此の諸法度に使はれましきや。
現代語訳
第二に、「仏法の修行は、禁戒を堅く守って仏祖の教えに背かず、よこしまで曲がった心を退治して善心となり、理非を明らかにした上で理を離れ、無義の義をもっぱら用い、慈悲と正直によって万民を救う。この心がすなわち諸々の法度に使う宝である」というのは、理も義も修めきって離れれば、おのずと理非がはっきり分かるということである。ただ心の発するままに行うことが、みな法を越えない。これを無義の義というのである。しかも慈悲の心で万民を救う。どうしてこれが諸々の法度に使われないことがあろうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中第三、仏法修行は、我見を去り、自他無差別にして、六和合を用ひ、誠の心に到り、上四恩を報じ、下三有の衆生を度す、此の心則ち五倫の道正しく使ふ宝也と云ふは、仏法は五倫の道に欠けたと云ふ人あるに仍て、此の段を書く。仏法と云ふは、我を捨て無差別の心に到り、上四恩を報し、下一切衆生を度す、是れを五倫に欠けたりと云はんや。又一切衆生一子の如しとも説きたまへり。儒道には、やうやう五倫を至極とすと見えたり。第四、仏法修行は、慮知分別の心を去て、著相の念に離れ、無我の心に到て、私なく物に任せて自由也。此の心則ち諸芸能に使ふ宝也。是れらは上手芸の芸者は知るへし。殊に兵法者などは、一入能く知るへき也。
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『驢鞍橋』卷中第五、仏法修行は、邪欲の心を除滅す。玆に因て奢る心暗ふ心奢る心、名聞利養の心なし。此の心則ち渡世身すきに使ふ宝也と云ふは、今時錯て人皆仏法は世間身すきの用に立たぬものと思ふ故に、此の段を書く也。仏法といふは、万々の邪欲の心を滅して、悪心が無い程にどこに居ても、さはりなく世を渡る也。皆へたに奢り、非分に欲をかはきて身を滅す也。大名も小名も是れによつて身代を没する也。総して悪心ある者は、どこにあつても住みにくきものぞと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏は万徳円満と也。然らは万徳の旨なくして修行する人は、仏弟子にあらす。願はくは万徳を旨として修行したまへかしとの念願也、と云ふは、万徳は、使ふ様に修せねは使はれぬ也。勇猛の機□する程に、次第に使はるゝ也。然る間、此の旨を守て修行せよとの念願也。畢竟万徳を使ふ事は、我を離るゝを体とする也。〇一、仏宝、法宝、僧宝、是れを三宝と崇め奉る也。此の三宝を受て万民に施し、国土の宝となすへき旨なくして修行する人は、僧に非す。願はくは三宝の旨を守て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、本心を仏宝とし、契ふを法宝とし、人に施すを僧宝とす、僧宝なけれは、仏法の二法は立たぬ也。然る間、万民を安んし国土の宝となる様に、真の道を修行し給へかしとの念願也。修し様は、何も前の万徳円満の筋一つ也。
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『驢鞍橋』卷下一日、俗士来て問ふ、修行者に邪正有りと承る、いか様なるを正法の修行者と申すや。師答へて曰く、我を尽すを正法とす、智恵者は智恵我を立て、慈悲者は慈悲我を立て、坐禅者は坐禅我を立て、見解者は見解我を立つ、何としても常の人よりは上に成て居るべし。大形我立仏法也。如何なる賤き者なりとも、真実さへ有れは正三は負る也。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、義なくして修行成るへからず。勇猛精進も義より起る也。生死の細を切るも義也、抑より終り迄、入る物は義也。専ら義を强く守るべき也。
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