驢鞍橋 / 卷中
又捨身の段に、法性城中に自巳の寃敵競ひ來て、既に國を傾けんとすと云ふは、体は元より佛体法身也。然れども六根門より煩惱の賊か取籠んだに仍て、煩惱袋と成る也。其の寃敵の大將は、身を思ふ一念也。此の大將に眼を付て、打て取れと云ふ事也。又信力堅固を大將と定め、捨身の軍兵を先としてと云ふは、是非にと强く信力を起すが大將也。此の信力が起らねは、何れの行も使はれぬ也。捨身はそこそこで使ふ程に軍兵也。
新字:又捨身の段に、法性城中に自巳の冤敵競ひ来て、既に国を傾けんとすと云ふは、体は元より仏体法身也。然れども六根門より煩悩の賊か取籠んだに仍て、煩悩袋と成る也。其の冤敵の大将は、身を思ふ一念也。此の大将に眼を付て、打て取れと云ふ事也。又信力堅固を大将と定め、捨身の軍兵を先としてと云ふは、是非にと強く信力を起すが大将也。此の信力が起らねは、何れの行も使はれぬ也。捨身はそこそこで使ふ程に軍兵也。
書き下し
又捨身の段に、法性城中に自巳の冤敵競ひ来て、既に国を傾けんとすと云ふは、体は元より仏体法身也。然れども六根門より煩悩の賊か取籠んだに仍て、煩悩袋と成る也。其の冤敵の大将は、身を思ふ一念也。此の大将に眼を付て、打て取れと云ふ事也。又信力堅固を大将と定め、捨身の軍兵を先としてと云ふは、是非にと強く信力を起すが大将也。此の信力が起らねは、何れの行も使はれぬ也。捨身はそこそこで使ふ程に軍兵也。
現代語訳
また捨身の段に「法性の城の中に自己の怨敵が競い来て、今にも国を傾けようとしている」と書いたのは、この体はもともと仏の体、法身である。けれども六根の門から煩悩の賊が立てこもったために、煩悩の袋となってしまう。その怨敵の大将は、身を思う一念である。この大将に眼を付けて討ち取れ、ということである。また「信力堅固を大将と定め、捨身の軍兵を先に立てて」と書いたのは、ぜひにと強く信力を起こすのが大将だということである。この信力が起こらなければ、どの行も使えない。捨身はあちこちで使うから軍兵なのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中先つ仏法と云ふは、六賊煩悩を打滅す事也。なに生々悪道ずきに成り居る身に添ふ□打取ことなる間、弱き心ではならぬ也。法身堅固の心とて是非にと思ふ心を強く定むへし。然らは信心起るへし。信心さへ強けれは、勇猛起るもの也。次きに精進心は起るもの也。爰に於て、ずだはこと□□と強く切払へは、切なる心、急なる心起るもの也。此の時夢中ともにぬけす、金剛心となり熟して内外打成一片となつて、内にも一念不生、外にも一塵碍る境界なく、業識無明の魔軍共を尽く打滅す也。然れ共是れまてはまだ夢中に打て取つた也。未だ実有は尽きぬず。ほつかと大夢醒め、はらりと実有破れ、生死を出て、一切を離れて大安楽に住する也。なにと此の心は武勇に使れましきや。
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『驢鞍橋』卷中又勇猛精進の武士を頭とし、幻化無常の剣を用ゐて、自己の本源に向て、十二時中切に急に責め入るへしと云ふは、勇猛の機起れは、捨身自由に使ふほとに頭也。扨てたは事たは事と時々に責め入れは、つんつと切るゝ物也。故に剣也。勇猛の機熟すれは、自ら出る物也。又自己を守るの段に、常に六根門を堅く守て、煩悩の賊を防くへしと云ふは、自巳を守る事也。六所にて守ると云ふ事にはあらす。自己をさへ能く守れは、どつこも治る也。又一句を守るへしと云ふより末は、言句に著て自巳を守る位ぞと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふはなるほと强き心を用ふる事也。六賊とて六処にて本心を盗む者有り、此賊は我心の弱き処より起る也。然る間機を强く用ゐて、巳が心を睨付けて守るへし。皆聞きそこのうて無常と云はれて、はへ土をかき、無念と云はれてあつかり坊に用ゆる也。大なる錯也。なるほと强き心を守るべしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日去る人自己を守らんとするに、取着き処無くして守れぬと云ふに示して曰く、中々好き合手こそあれ。先つ此身痛く痒く熱く寒く、四苦八苦満み満み不浄は積て湛へたり。扨て心中には八万四千の悪業煩悩の苦有り、やれやれいやな体哉。あな憎くの心め哉と此身心を合手にして、きつと睨付けて守るべし。之に增したる合手有らんや。我は始めより憂かりこの機がきつと備はり、此身に使はれ責めらるゝことかうゝて有りしに仍て、抜かしたうても自ら抜けす。左なき人は我悪いことに眼を付けて守るの外なし。必ずこの糞袋を合手にして、きつと張合て守るへし。如是なしてこそ、二王の機と云ふことをも知り、実も薄く成り、心も次第に自由に成るべし。総じて修行は、今使はるゝ様にすへき也。
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『驢鞍橋』卷下彼人曰く、法の為めに身を捨る上は、何事にかいきあたるべし。師曰く、めたと身を捨るを仏法とは云はす、夫れが成仏ならば、人を頼で頭を切りめされんや。又堀川にも飛込み死するを成仏と云はんや。身を捨つと云ふは、執着を離るゝこと也。執着の機だに離れば、身は有つても碍なし。然ればとて身をうまする事にもあらず。又ゆゑなく身を使ひくつめ、病者に成つてもならぬこと也。その上おつきるを、身を捨つと思はるゝか。おつきるは、却で身の為めに楽を求むると云ふ物也。後世を願ふも、我身の為めに願はずや。身を捨るならば、何で今の奉公を勤めさる、いやなことを作すこそ、身を捨るなれ。殊に修行と云ふは、强き心を以て修することなる間、出家よりは侍よき也。その故は先つ□主を持て機に油断し、常に大小をさし働かし、すわと云はばと云ふ機自ら備はる也。此の機にてさへ用ゐられす、況や出家に成り、機たらりとなつて、何の用に立たんや。
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『驢鞍橋』卷中如是なる身を愛するを愚人と云ひ、殺得するを道者とす。此の理を忘れすして、捨身を本意として行脚すへし。油断あらは、大地獄に入るへし。此の身を捨て切り、浮世にはなれ切らずは、仏果に到る事有るへからす。食乏しき時は、此の身に餓鬼ある事を知て責むへし。瞋恚の発る時は、則ち地獄の衆生なる事を知て責むへし。愚痴蒙昧の時は、則ち畜生なりと知て責むへし。大小便の時は、臭肉不浄を以て責むへし。起居動静について臭皮袋を責めて、終に責め破る時節有らは、即心成仏なるへし。是れを日々に読みて責むへし。必す読み聞かすへし。懈怠有るからす。已上。
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