驢鞍橋 / 卷中
忘牛存人七。爰は無法の人と成つたう。然れ共我は殘つたず。法は盡きても、我はまだ有るものず。人牛倶忘八。法も無く人影も無し。虛空一枚ぞ。返本還源九。我無き人の物を見るは、境はかりあり。萬事をなすも我無けれは其の業はかりそ。然る間境はかり□いたず。入廛垂手十。爰は我も無き人の底を圖した□。此の人は迷悟凡聖一体の處ず。何をなしたも碍りなき人ぞ惡も善となつたう依此酒肆魚行化令成佛とあるぞ。師便ち曰く、十段めに善惡の沙汰は仕度もなけれとも酒肆魚行化令成佛とあるに仍て云ふと也。
新字:忘牛存人七。爰は無法の人と成つたう。然れ共我は残つたず。法は尽きても、我はまだ有るものず。人牛倶忘八。法も無く人影も無し。虚空一枚ぞ。返本還源九。我無き人の物を見るは、境はかりあり。万事をなすも我無けれは其の業はかりそ。然る間境はかり□いたず。入廛垂手十。爰は我も無き人の底を図した□。此の人は迷悟凡聖一体の処ず。何をなしたも碍りなき人ぞ悪も善となつたう依此酒肆魚行化令成仏とあるぞ。師便ち曰く、十段めに善悪の沙汰は仕度もなけれとも酒肆魚行化令成仏とあるに仍て云ふと也。
書き下し
忘牛存人七。爰は無法の人と成つたう。然れ共我は残つたず。法は尽きても、我はまだ有るものず。人牛倶忘八。法も無く人影も無し。虚空一枚ぞ。返本還源九。我無き人の物を見るは、境はかりあり。万事をなすも我無けれは其の業はかりそ。然る間境はかり□いたず。入廛垂手十。爰は我も無き人の底を図した□。此の人は迷悟凡聖一体の処ず。何をなしたも碍りなき人ぞ悪も善となつたう此に依て酒肆魚行、化して成仏せしむとあるぞ。師便ち曰く、十段めに善悪の沙汰は仕度もなけれとも酒肆魚行、化して成仏せしむとあるに仍て云ふと也。
現代語訳
第七「忘牛存人」。ここでは法を離れた人となったのだ。しかしまだ自分が残っている。法は尽きても、自分というものはまだ有るのだ。第八「人牛倶忘」。法もなく人の影もなく、ただ虚空一枚である。第九「返本還源」。我のない人がものを見れば、ただ境(見られる対象)だけがある。万事をするにも、我がなければ、ただその行いだけがある。だから境だけが□いたのだ。第十「入廛垂手」。ここでは我もない人の境地を描いたのだ。この人は迷いと悟り、凡夫と聖者が一つになったところにいる。何をしても障りのない人だ。悪も善となったのである。だから「酒屋や魚屋の中で、人を教化して仏とならせる」とあるのだ。師はそこで言われた。第十段目に善悪の取沙汰などしたくはないが、「酒肆魚行、化して成仏せしむ」とあるので、こう言うのだ、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中十牛図抄、尋牛一志を励し心法を求るの義也。見跡二。経文語録の上に道理を明す也。見籠能き人は、見性に似たる程の語を吐くべし。見解ある人は、此の邪正を知るへし見牛三。声を聞いて道を悟り、色を見て心を明らむるの義ず。此の心は万物の上に備へたず然れ共未だ我には随はぬう。得牛四。爰ては心牛につなをつけて随へんとする也。此の間の修行久しかるへし。此の牛妄想の叢をはなる事難し。学者能く知るべし。心を随へすんは、悪趣を出ることかたし。大切の修行爰に在り、功を尽くすへし。牧牛五。此の牛随分我に随ふといへ共、一念おこれは、かけ出すず。心をゆるせば、牛が狂ふぞ。堅く鼻索を引て禅定に入れ。弥々功を尽くさすんは叶ひ難し。騎牛帰家六。爰の修行は、牛と我と一般になつたぞ。我は牛に任せてさはりないず。
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『驢鞍橋』卷中時に人問ふ、心さへ空したらは、何ぞ人残らんや。師曰く、心空したる人が、何とも空せられぬもの也。我も本より法をもたぬ性なるがまだ正三と云ふ腐れ者は空せられぬ也。此に到て何ともならぬ者也。又問ふ、帰源の頌に庵中庵前の物を見ず、水自ら茫々、花自ら紅なりとあり。此意如何。師曰く、此の人の胸の中には何もなし。物を見れば物はかり也。扨て此の人のなりはと云ふに、瓢を提げて市に入り、杖を策いて家に還る。何とも成たが、何とも無い人也。此の十牛に合せて修しをせる抔と云ふ事は、一世二世の修行では及びも無き事なり。□師一時牛の胴より後の方計を書いたは錯也と云つて、慕面に見たるになほし、又引合図勢強く書せ、又埀手の処に市人を書き添えさせ、此の十牛を図計り掛物に仕たまふ一度開板して世に出す。又其後無門と中峯の□像を設け、上に無の話と判語と座右の銘とを書し、十牛図の左右に掛け、諸人に古人の修行の筋を見せ給ふ也。
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『驢鞍橋』卷中因に僧問ふ、跡見の序に、衆器を明めて一金と為し、万物を体して自己と為す。正邪弁ぜずんば、真偽奚ぞ分たん。未だ斯の門に入らず、権に見跡と為すと有り。是れ悟りたる底の文章に非すや師曰く、経教に仍て跡を知り、衆器を一金と作し、万物を自己と作すほど修しつめたれとも、正邪弁ぜず未だ斯の門に入らず権りに跡を見るとなした也。扨て其次牛を見たる処は、見性也。是迄は、大形にも仕付る人も有るへし。其後牛と引合段大義なる処也。其後牛がちと随ふ程いよいよ六かしい也。此の二段大に功を尽くす処也。牛に騎りたは、よふ熟した心の自由に使ひ得たる処也。牛を忘じては、無心底也。
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『驢鞍橋』卷中師一日衆に謂て曰く、十牛の図は、さりとては能くせられたり扨て又頌を作り添えた人は錯也。当時学者皆文字言句にばかりかゝはるに因て、文字言句をけづり捨て、此の図を作し、直に此の図に契ふ様に修させんとの方便也。然るに又頌を作し、和をなして文字を取著ると云ふ様な事有らんや。結句此比は図無くして頌ばかり出したる本などあり、大なる錯也。
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『驢鞍橋』卷上時に一僧曰、然らば本寺衆より彼の代り法門と申すものこそ、仏祖の意を本として文字を立てざる道也と云はれば如何。師曰、中々云ふべし、さてはさては有難き道人にて御坐有るよ。去らば御奉行中の御前にて、仏意を論すべし。論じ負けば頸を切り玉へ、さあ只今双方の意を御聞き有るべしと云ふへき也。我は誠に頸を切らるべし、我より能き人出で正理だに立たば、頸を切られん事本望也。時に一僧曰、御奉行中より仏法錯り来ると云はるゝが、其邪正は俗の聞いても埒明くことかと仰せあらば如何。師曰、こそ御俗方の御耳に入るゝ事也と、十牛図を以て出で、一一講釈して仏祖の修行は真に此筋也。扨今時此一牛にも叶ひたる出家ありや、御穿鑿あるべしと申すへき也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。
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