驢鞍橋 / 卷中
因に僧問ふ、跡見の序に、明衆器爲一金。躰萬物爲自己。正邪不辨。眞僞奚分。未入斯門。權爲見跡と有り。是れ悟りたる底の文章に非すや師曰く、經敎に仍て跡を知り、衆器を一金と作し、萬物を自己と作すほど修しつめたれとも、正邪不辨未入斯門權りに跡を見るとなした也。扨て其次牛を見たる處は、見性也。是迄は、大形にも仕付る人も有るへし。其後牛と引合段大義なる處也。其後牛がちと隨ふ程いよいよ六かしい也。此の二段大に功を盡くす處也。牛に騎りたは、よふ熟した心の自由に使ひ得たる處也。牛を忘じては、無心底也。
新字:因に僧問ふ、跡見の序に、明衆器為一金。体万物為自己。正邪不弁。真偽奚分。未入斯門。権為見跡と有り。是れ悟りたる底の文章に非すや師曰く、経教に仍て跡を知り、衆器を一金と作し、万物を自己と作すほど修しつめたれとも、正邪不弁未入斯門権りに跡を見るとなした也。扨て其次牛を見たる処は、見性也。是迄は、大形にも仕付る人も有るへし。其後牛と引合段大義なる処也。其後牛がちと随ふ程いよいよ六かしい也。此の二段大に功を尽くす処也。牛に騎りたは、よふ熟した心の自由に使ひ得たる処也。牛を忘じては、無心底也。
書き下し
因に僧問ふ、跡見の序に、衆器を明めて一金と為し、万物を体して自己と為す。正邪弁ぜずんば、真偽奚ぞ分たん。未だ斯の門に入らず、権に見跡と為すと有り。是れ悟りたる底の文章に非すや師曰く、経教に仍て跡を知り、衆器を一金と作し、万物を自己と作すほど修しつめたれとも、正邪弁ぜず未だ斯の門に入らず権りに跡を見るとなした也。扨て其次牛を見たる処は、見性也。是迄は、大形にも仕付る人も有るへし。其後牛と引合段大義なる処也。其後牛がちと随ふ程いよいよ六かしい也。此の二段大に功を尽くす処也。牛に騎りたは、よふ熟した心の自由に使ひ得たる処也。牛を忘じては、無心底也。
現代語訳
ついでに僧が問うた。見跡(原文「跡見」)の序に「多くの器が同じ一つの金でできていると明らめ、万物を体得して自己とする。しかし正と邪を弁えなければ、真と偽をどうして分けられようか。まだこの門に入っていないので、仮に跡を見たとする」とあります。これは悟った境地の文章ではありませんか。師が言われた。経や教えによって跡を知り、多くの器を一つの金とし、万物を自己とするほどまで修し詰めたけれども、正邪を弁えず、まだこの門に入っていないので、仮に跡を見たとしたのである。さてその次の牛を見たところは見性である。ここまでは、おおかたの人でもやり遂げる人があるだろう。その後の牛と引き合う段が大変なところである。その後、牛が少し従うほどになると、いよいよ難しい。この二段は大いに功を尽くすところである。牛に乗ったのは、よく熟した心を自由に使いこなせるようになったところである。牛を忘れたのは、無心の境地である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中十牛図抄、尋牛一志を励し心法を求るの義也。見跡二。経文語録の上に道理を明す也。見籠能き人は、見性に似たる程の語を吐くべし。見解ある人は、此の邪正を知るへし見牛三。声を聞いて道を悟り、色を見て心を明らむるの義ず。此の心は万物の上に備へたず然れ共未だ我には随はぬう。得牛四。爰ては心牛につなをつけて随へんとする也。此の間の修行久しかるへし。此の牛妄想の叢をはなる事難し。学者能く知るべし。心を随へすんは、悪趣を出ることかたし。大切の修行爰に在り、功を尽くすへし。牧牛五。此の牛随分我に随ふといへ共、一念おこれは、かけ出すず。心をゆるせば、牛が狂ふぞ。堅く鼻索を引て禅定に入れ。弥々功を尽くさすんは叶ひ難し。騎牛帰家六。爰の修行は、牛と我と一般になつたぞ。我は牛に任せてさはりないず。
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『驢鞍橋』卷中時に人問ふ、心さへ空したらは、何ぞ人残らんや。師曰く、心空したる人が、何とも空せられぬもの也。我も本より法をもたぬ性なるがまだ正三と云ふ腐れ者は空せられぬ也。此に到て何ともならぬ者也。又問ふ、帰源の頌に庵中庵前の物を見ず、水自ら茫々、花自ら紅なりとあり。此意如何。師曰く、此の人の胸の中には何もなし。物を見れば物はかり也。扨て此の人のなりはと云ふに、瓢を提げて市に入り、杖を策いて家に還る。何とも成たが、何とも無い人也。此の十牛に合せて修しをせる抔と云ふ事は、一世二世の修行では及びも無き事なり。□師一時牛の胴より後の方計を書いたは錯也と云つて、慕面に見たるになほし、又引合図勢強く書せ、又埀手の処に市人を書き添えさせ、此の十牛を図計り掛物に仕たまふ一度開板して世に出す。又其後無門と中峯の□像を設け、上に無の話と判語と座右の銘とを書し、十牛図の左右に掛け、諸人に古人の修行の筋を見せ給ふ也。
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『驢鞍橋』卷中忘牛存人七。爰は無法の人と成つたう。然れ共我は残つたず。法は尽きても、我はまだ有るものず。人牛倶忘八。法も無く人影も無し。虚空一枚ぞ。返本還源九。我無き人の物を見るは、境はかりあり。万事をなすも我無けれは其の業はかりそ。然る間境はかり□いたず。入廛垂手十。爰は我も無き人の底を図した□。此の人は迷悟凡聖一体の処ず。何をなしたも碍りなき人ぞ悪も善となつたう此に依て酒肆魚行、化して成仏せしむとあるぞ。師便ち曰く、十段めに善悪の沙汰は仕度もなけれとも酒肆魚行、化して成仏せしむとあるに仍て云ふと也。
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『驢鞍橋』卷下一日示して曰く、見性の分あつても、猶猶强く修すること也。中々際の明くことに非ず。然るに今時は少見解有らば、早や修行成就と思ひ、師家を立ち、又人を印可する也。すべ大に差へり。縦ひ見性の位有るとも、仏境界にては有るべからす。何を印可することか知らぬ也。若し强く修し透て、仏祖と一枚の境界に至りなば、始めて印可を受くべし。夫れさへまだ超仏越祖と云ふこと有り。大国にても早や法のすべは久しく差ひ来ると見えたりと也。又曰く、縦ひ意抔移りたるとも、境界は五生や十生修して尽くることに非ず、扨ても多生にも至り難いこと哉と、三世仏の境界を好く見届た也。然る間、我そ三世仏の境界に至つたと云ふことはならす、三世仏の境界の位を慥に見届け、又五百年以来法の筋差ふたと云ふことは、何時も火石を執るべし。誠に此の段に於ては慥に証拠に成らんすと也。
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『驢鞍橋』卷中師一日衆に謂て曰く、十牛の図は、さりとては能くせられたり扨て又頌を作り添えた人は錯也。当時学者皆文字言句にばかりかゝはるに因て、文字言句をけづり捨て、此の図を作し、直に此の図に契ふ様に修させんとの方便也。然るに又頌を作し、和をなして文字を取著ると云ふ様な事有らんや。結句此比は図無くして頌ばかり出したる本などあり、大なる錯也。
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『驢鞍橋』卷上師又曰く、其方の振は仏法を持たれたり出しめされよ。彼者、少しも存せずと云ふ。師曰、いやいや一物有り、早々出しめされよと責め給ふ。時に彼者去る和尚より趙州洗鉢盂の話を授かり、脫体に入りかゝり候と云ふ。師曰く、三宝とて世人の宝と成る僧が、還つて左も無き事を授けて、人を損ふと是非も無き事也。夫れ言句に徹すると云ふ事も無きには非ず、縦ひ微したりとも、餓鬼畜生の心は休むへからす。我も私見性少し有れども何の用にも立たす、結句今時見性したりと云ふ人は、大形人悪く成る也。其方も只土に成て念仏修行せらるべし。彼者問、修行とはいかなる事なりや。師答て曰、我を尽す事也。又問、土にはなにと成り候や。師答て曰、其方が胸の中の知解妄想を悉く打捨て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と道理を申しけし、我を申しけして、虚空一枚に成るを土に成て成仏する修行と云ふ也。
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