驢鞍橋 / 卷下
一日示して曰く、見性の分あつても、猶猶强く修すること也。中々際の明くことに非ず。然るに今時は少見解有らば、早や修行成就と思ひ、師家を立ち、又人を印可する也。すべ大に差へり。縱ひ見性の位有るとも、佛境界にては有るべからす。何を印可することか知らぬ也。若し强く修し透て、佛祖と一枚の境界に至りなば、始めて印可を受くべし。夫れさへまだ超佛越祖と云ふこと有り。大國にても早や法のすべは久しく差ひ來ると見えたりと也。又曰く、縱ひ意抔移りたるとも、境界は五生や十生修して盡くることに非ず、扨ても多生にも至り難いこと哉と、三世佛の境界を好く見屆た也。然る間、我そ三世佛の境界に至つたと云ふことはならす、三世佛の境界の位を慥に見屆け、又五百年以來法の筋差ふたと云ふことは、何時も火石を執るべし。誠に此の段に於ては慥に證據に成らんすと也。
新字:一日示して曰く、見性の分あつても、猶猶强く修すること也。中々際の明くことに非ず。然るに今時は少見解有らば、早や修行成就と思ひ、師家を立ち、又人を印可する也。すべ大に差へり。縦ひ見性の位有るとも、仏境界にては有るべからす。何を印可することか知らぬ也。若し强く修し透て、仏祖と一枚の境界に至りなば、始めて印可を受くべし。夫れさへまだ超仏越祖と云ふこと有り。大国にても早や法のすべは久しく差ひ来ると見えたりと也。又曰く、縦ひ意抔移りたるとも、境界は五生や十生修して尽くることに非ず、扨ても多生にも至り難いこと哉と、三世仏の境界を好く見届た也。然る間、我そ三世仏の境界に至つたと云ふことはならす、三世仏の境界の位を慥に見届け、又五百年以来法の筋差ふたと云ふことは、何時も火石を執るべし。誠に此の段に於ては慥に証拠に成らんすと也。
書き下し
一日示して曰く、見性の分あつても、猶猶强く修すること也。中々際の明くことに非ず。然るに今時は少見解有らば、早や修行成就と思ひ、師家を立ち、又人を印可する也。すべ大に差へり。縦ひ見性の位有るとも、仏境界にては有るべからす。何を印可することか知らぬ也。若し强く修し透て、仏祖と一枚の境界に至りなば、始めて印可を受くべし。夫れさへまだ超仏越祖と云ふこと有り。大国にても早や法のすべは久しく差ひ来ると見えたりと也。又曰く、縦ひ意抔移りたるとも、境界は五生や十生修して尽くることに非ず、扨ても多生にも至り難いこと哉と、三世仏の境界を好く見届た也。然る間、我そ三世仏の境界に至つたと云ふことはならす、三世仏の境界の位を慥に見届け、又五百年以来法の筋差ふたと云ふことは、何時も火石を執るべし。誠に此の段に於ては慥に証拠に成らんすと也。
現代語訳
ある日示して言われた。見性の分があっても、なお強く修めることである。なかなか一段落がつくことではない。ところが今は、少し見解があれば、もう修行成就と思い、師家を立て、また人に印可するのである。やり方が大いに違っている。たとえ見性の位があっても、仏の境界ではないはずだ。何を印可することか分からない。もし強く修め抜いて、仏祖と一枚の境界に至ったなら、初めて印可を受けるべきである。それでさえ、まだ仏を超え祖を越えるということがある。大国(中国)でも、もう法のやり方は久しく違ってきたと見える、と。また言われた。たとえ意などが移ったとしても、境界は五生や十生修めて尽きることではない。なんとも多生でも至りがたいことだと、三世の仏の境界をよく見届けたのである。だから、私が三世の仏の境界に至ったと言うことはできないが、三世の仏の境界の位を確かに見届け、また五百年来、法の筋が違ってきたということは、いつでも火石を執ろう(命を懸けて証明しよう)。本当にこの段においては、確かに証拠になるだろう、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上師又曰く、其方の振は仏法を持たれたり出しめされよ。彼者、少しも存せずと云ふ。師曰、いやいや一物有り、早々出しめされよと責め給ふ。時に彼者去る和尚より趙州洗鉢盂の話を授かり、脫体に入りかゝり候と云ふ。師曰く、三宝とて世人の宝と成る僧が、還つて左も無き事を授けて、人を損ふと是非も無き事也。夫れ言句に徹すると云ふ事も無きには非ず、縦ひ微したりとも、餓鬼畜生の心は休むへからす。我も私見性少し有れども何の用にも立たす、結句今時見性したりと云ふ人は、大形人悪く成る也。其方も只土に成て念仏修行せらるべし。彼者問、修行とはいかなる事なりや。師答て曰、我を尽す事也。又問、土にはなにと成り候や。師答て曰、其方が胸の中の知解妄想を悉く打捨て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と道理を申しけし、我を申しけして、虚空一枚に成るを土に成て成仏する修行と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時の諸宗に仏道の大筋を教へたし。何の口伝も無き事、只志を進め真実を発し、修し行して仏祖の意を大切にする計り也。此心法は徹しても大事、徹せすしても大事也。兎角修しさへすれは心磨けて行く程に、悟らずして悟る也。今時も悟らすして悟つて居る人はあるべし。扨も笑止千万の事は、法の筋違つて居る故に、悟つて迷ふ人世に多しと也。
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『驢鞍橋』卷下縦ひ見性の人といふとも、如是諸訛有り。その上我も右の如く段々のこと移る程修しつめ、見処迄も打捨て、本に帰りては修し修し仕りけれども、今に此の糞袋は惜き也。其方も今より出家して八十迄修して見られよ。何の変も無き物ぞ。然る間、剃ても機違、すらでも機違と思ふてすらば、剃りめされよ。剃りたらはよからんと思ふてすられば、大きに差ふべし。何の替りたることも有るべからず。若し替ることあらば、天狗か気違なるべし。彼人良有て云ふ、今日迄は加様に存候が、後又出家を遂けずんば、いな物なるべし。師曰く、先よりの云分一つとして切れたることなし。後還俗せば、脚軽ても為て過きめされよ。後何と成りたらは、誰か何と云はん抔と思ふは切れぬ心也。
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『驢鞍橋』卷上我書く処の如く、実有を離れたらば仏境界なるへし。見性の人も常住あの如く用ゐ得へからす。我も久しく强く用ふれども実は醒めぬ也。此前は强弓を引張りたるが如く、機の位有りけるが、今少し老敷成りて覚ゆ。此前は我は覚えさるか、不断眼すわつて見えたりと人いへり。誠に過去より種を持来る人は不知、一生に勢を出し種を取る事は、我ほどのも多くは有るへからす。我も慥に種は取りたる也。八万地獄の底に落ちたりとも、はや種はおとさぬ也。総して怨霊と成る程の機無くんば、種と成るへからすと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。