驢鞍橋 / 卷中
問ふ、永平和尙北野に於て八月十五夜に曰く、「また見んと思ひし時の秋だにも今霄の月に寢られやはする。」是れ道人に似合はす、月に執心を思ひ殘したる歌に非すや。師曰く、其義に非す、道元は歌道に達したまふ故に、其道より遊はれたり、月や花には感を入れてよむもの也。其方達は、何事にも只莫妄想、放下著とすくひ捨る樣にさへ云へは、よいと思はるらんと也。
新字:問ふ、永平和尚北野に於て八月十五夜に曰く、「また見んと思ひし時の秋だにも今霄の月に寝られやはする。」是れ道人に似合はす、月に執心を思ひ残したる歌に非すや。師曰く、其義に非す、道元は歌道に達したまふ故に、其道より遊はれたり、月や花には感を入れてよむもの也。其方達は、何事にも只莫妄想、放下著とすくひ捨る様にさへ云へは、よいと思はるらんと也。
書き下し
問ふ、永平和尚北野に於て八月十五夜に曰く、「また見んと思ひし時の秋だにも今霄の月に寝られやはする。」是れ道人に似合はす、月に執心を思ひ残したる歌に非すや。師曰く、其義に非す、道元は歌道に達したまふ故に、其道より遊はれたり、月や花には感を入れてよむもの也。其方達は、何事にも只莫妄想、放下著とすくひ捨る様にさへ云へは、よいと思はるらんと也。
現代語訳
問う。永平寺の道元和尚は、北野で八月十五夜に「また見んと思ひし時の秋だにも今宵の月に寝られやはする(また見ようと思っていた頃の秋でさえ、今宵のような月には眠れなかったものを)」と詠まれた。これは道人に似合わず、月に執心を思い残した歌ではないか。師が言われた。その意味ではない。道元は歌道に通じておられたから、その道の作法から詠まれたのである。月や花には感を入れて詠むものだ。そなたたちは、何事にもただ「莫妄想」「放下著」とすくい捨てるように言いさえすればよいと思っているのだろう、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中問ふ、古歌に曰く、「中々に深山の奥そ住よけれ草木は人の是非を云はねは」是れ道歌也と承る、是なりや。師聞て曰く、我字直したき処あり。俗云ふ、何れの字なりや。師曰く、「中々に深山の奥そ住受けれ草木は人の是非を云はねは。」
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『驢鞍橋』卷中永平随聞記に曰く、先儒多くは三び顧るに三たびなから善ならは云ひ行くと也。衲子も亦必ずしも然るべしと云云。師云はく、此の語志なき者のためにはよき異見也。修行用心の為めとては残されす。修行者は、心をもつて廻らず、無分別に用ひたが能き也。時に一僧云ふ、めつたな事を申すが禅法なりや。師云はく、先き云ふか如し、志なき者の事にあらず、我いふは修行者の心用ひ端の事也。
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『驢鞍橋』卷中臨済録に曰く。路に達道の人に逢はば、第一に向つて道ふこと莫れ云云。一僧問ふ、どこにも留るなと云ふ義也や。師云はく、夫ならは仏道にも随はぬか是ならんや。左様の修行地を以て言つた事にあらす。今日用処什麼をか欠少すと云はれたる也。因に云ふ、普化の機移りてより後、加様の処よく見ゆる也。仏の処は及ひなし。普化の境界ほどには、生生世世に於て至らんと思ふ心強しと也。
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『驢鞍橋』卷下夜話の次、師問衆、何れも心相替ることなしや。一僧曰く、心相替ること候はず。此の春より耳少し改り、此の前より承る御物語をも、新に耳に入る様に覚え候也。其故か済まぬは済まんにして、胸ぎりに仕る位有りといふ。師聞て曰く、先つ是れ好き事也
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『驢鞍橋』卷下夜の次曰く、我常に謡を坐禅の機に用ゐよと云ふこと、何れも実にもと思はるゝや。一僧曰く、用ゐることを得ず、分別には好く肯ふと云ふ。師曰く、何には因らぬ、なるほど機を强く、ぬんと用ゐて、娑婆の念を去り習ふ外なし。何としても心娑婆に負けて居るもの也。能く用心すべしと也。
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『驢鞍橋』卷中師語て曰く、此の堺に無の見に落ちたる者あり。沢庵和尚是れを破するに歌一首を以てす、「過去もなく未来もなしといふ人のいづくより来て此世には住む」とよめり。此の歌禅僧の歌といはれす、禅の手段と云ふは、直につゝけてひしと意に当る様に云ふもの也と云つて、便ち云はく、過去もなく未来もなしといふ人の此世を有りと見るはそも誰そ。
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