驢鞍橋 / 卷下
夜の次曰く、我常に謠を坐禪の機に用ゐよと云ふこと、何れも實にもと思はるゝや。一僧曰く、用ゐることを得ず、分別には好く肯ふと云ふ。師曰く、何には因らぬ、なるほど機を强く、ぬんと用ゐて、娑婆の念を去り習ふ外なし。何としても心娑婆に負けて居るもの也。能く用心すべしと也。
新字:夜の次曰く、我常に謡を坐禅の機に用ゐよと云ふこと、何れも実にもと思はるゝや。一僧曰く、用ゐることを得ず、分別には好く肯ふと云ふ。師曰く、何には因らぬ、なるほど機を强く、ぬんと用ゐて、娑婆の念を去り習ふ外なし。何としても心娑婆に負けて居るもの也。能く用心すべしと也。
書き下し
夜の次曰く、我常に謡を坐禅の機に用ゐよと云ふこと、何れも実にもと思はるゝや。一僧曰く、用ゐることを得ず、分別には好く肯ふと云ふ。師曰く、何には因らぬ、なるほど機を强く、ぬんと用ゐて、娑婆の念を去り習ふ外なし。何としても心娑婆に負けて居るもの也。能く用心すべしと也。
現代語訳
夜話のついでに言われた。私がいつも、謡を坐禅の気迫に用いよと言っていることを、誰もがなるほどと思われるか。一人の僧が言った。用いることはできませんが、分別の上ではよく納得します、と言う。師は言われた。何によるわけでもない。なるほど気迫を強く、どっしりと用いて、娑婆の念を去ることを習う外はない。どうしても心は娑婆に負けているものである。よく用心しなさい、と。
解説
謡を坐禅の気迫に用いよ、という教えを、頭では納得するが実際にはできない、と僧は正直に言う。正三は、方法の問題ではない、強くどっしりと気迫を用いて世間の思いを去る練習をするしかない、心はどうしても世間に負けているものだ、と答える。分かっているのにできない、という悩みに、特別な方法はなく、繰り返し練習するしかないと示す。頭の理解と身体の実行の間の溝を、正直に見つめた条である。
この章句が説くこと
謡実行練習分別娑婆気迫
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