驢鞍橋 / 卷中
是れを似我の功德と云ふ。似我蜂と云ふ者、菜虫を子とし、似我類、我々々々々とさせは、功積て天然と蜂となる也。如是道理は知らね共、經呪を誦すれは天然と心に近付く。是故に似我の功德を說きたまふと也。是を以てしるへし、萬德圓滿の佛心付て有る故に、佛語にては、地獄煑さす也。祖語は德佛に不及故に、しるしなき也。別に子細なし。爰を以て思ふに、今時引導坊主抔をめたと僉議なしに賴むは、扨ても笑止千萬の事哉と思はるゝ也。又衆に向つて云はく、少の惡も永く朽ちす居る事、如何受けられたりや。衆云ふ、是。師云はく、皆分別にして、意に乘らぬと見えたり。若し乘りたらは、假始の惡念も起すましき事哉と恐るゝ氣色有るべしと也。
新字:是れを似我の功徳と云ふ。似我蜂と云ふ者、菜虫を子とし、似我類、我々々々々とさせは、功積て天然と蜂となる也。如是道理は知らね共、経呪を誦すれは天然と心に近付く。是故に似我の功徳を説きたまふと也。是を以てしるへし、万徳円満の仏心付て有る故に、仏語にては、地獄煑さす也。祖語は徳仏に不及故に、しるしなき也。別に子細なし。爰を以て思ふに、今時引導坊主抔をめたと僉議なしに頼むは、扨ても笑止千万の事哉と思はるゝ也。又衆に向つて云はく、少の悪も永く朽ちす居る事、如何受けられたりや。衆云ふ、是。師云はく、皆分別にして、意に乗らぬと見えたり。若し乗りたらは、仮始の悪念も起すましき事哉と恐るゝ気色有るべしと也。
書き下し
是れを似我の功徳と云ふ。似我蜂と云ふ者、菜虫を子とし、似我類、我々々々々とさせは、功積て天然と蜂となる也。如是道理は知らね共、経呪を誦すれは天然と心に近付く。是故に似我の功徳を説きたまふと也。是を以てしるへし、万徳円満の仏心付て有る故に、仏語にては、地獄煑さす也。祖語は徳仏に不及故に、しるしなき也。別に子細なし。爰を以て思ふに、今時引導坊主抔をめたと僉議なしに頼むは、扨ても笑止千万の事哉と思はるゝ也。又衆に向つて云はく、少の悪も永く朽ちす居る事、如何受けられたりや。衆云ふ、是。師云はく、皆分別にして、意に乗らぬと見えたり。若し乗りたらは、仮始の悪念も起すましき事哉と恐るゝ気色有るべしと也。
現代語訳
これを似我の功徳という。似我蜂というものは、青虫を子とし、「我に似よ、我に似よ」と繰り返し唱えさせると、功が積もって自然と蜂になるのである。このように、道理は知らなくても、経呪を誦すれば自然と心が仏に近づく。それゆえ似我の功徳を説かれたのである。これをもって知るべきである。万徳円満の仏心が付いているから、仏の言葉では地獄が煮え立たなくなるのである。祖師の言葉は徳が仏に及ばないから、効き目がないのである。別に子細はない。このことから思うに、今どき引導の坊主などを、むやみに吟味もせずに頼むのは、なんとも笑止千万なことだと思われる。また衆に向かって言われた。「わずかな悪も永く朽ちずに残るということを、どう受け止められたか」。衆は「承知しました」と言った。師が言われた。「皆、分別で受け取っていて、心に乗っていないと見える。もし心に乗ったなら、かりそめの悪念も起こしてはならないことだと恐れる気色があるはずだ」と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中問ふ、肥前国温泉の地獄へ仏語と祖語を書き入るゝに、仏語にては湯湧さすに祖語にては功徳なしと承る。此の誵訛如何。師云はく、仏語祖語大に功徳間あり。祖師の徳は、仏の小指にても及ふへからす。此前玄俊坊の云ふ、人悪心を以て業をなせは、楊枝にても何にても、其体のある中は、其悪心がきつと付て居る也。善心を以てなす事も如是と仏経に有り。仏語には、仏の万徳円満の心付て有る故に、誦する者に天然と功徳備はる也。
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『驢鞍橋』卷中師曰く我に離るゝ事也、我にさへ離れぬれは、万徳を使ふ也。性は明るがらうとも、暗からうとも、行は強からうとも弱からうとも、只我に離るゝ筋を勤めは、万徳の筋を修する人也。志のないと云ふも、我に離れ度き心の無きを云ふ也。扨て此の外物知りの、学者の、行者の、能筆の、作者の抔と云ふは、法中の芸者也。正法にあらす縦ひ一文不通なりとも我に離るゝ筋を修する人を正法と定れは、誰れも聞く事に非すや。加様の大すへをさへ知りめされぬは愚なる事也。あつたら雑談を其方達に聞かせたり。能く耳のある者に聞かせたし。是れ程の事も正三が死ねば、誰れても沙汰してかをりない御坊主達、聞き置てくれめされよと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、俗士来て問ふ、修行者に邪正有りと承る、いか様なるを正法の修行者と申すや。師答へて曰く、我を尽すを正法とす、智恵者は智恵我を立て、慈悲者は慈悲我を立て、坐禅者は坐禅我を立て、見解者は見解我を立つ、何としても常の人よりは上に成て居るべし。大形我立仏法也。如何なる賤き者なりとも、真実さへ有れは正三は負る也。
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『驢鞍橋』卷上一日因果の理を破る者に示して曰く、我人を打てば人亦我を打つ、人に能く向へは人亦我によし。是れ眼前の道理なり。其上三時業報の因果歴然の仏説明也。然るに仏説を信せぬは、其方は仏より上なり、近頃珍しき人也。亦彼の者誦経すれば口が成仏仕るやと云ふ。師曰、先づ口なりとも成仏するかよきなり。総して今時勤めは心に有りて業にあらすと云ふ者錯多しと也。
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『驢鞍橋』卷上是れは只今其方の心の輪廻するを以て知るべし。善念頓て悪念に成り、悪心も亦善心に成る也。天道より地獄に往き、地獄より天道に往く証拠是れ也。余の悪道を廻る事も如是。此念を離れて不生不滅なるを成仏と云ふ也。如是我と念根を修し尽して、成仏すること也。何として傍より其方の念を休めんや。强く眼を着け、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と命を限りにひた責めに責めて、念根を可尽すべし。総じて大なる悪、及ばさる望は休む物也、されとも兎角なにか有る物也。念根の切尽す事難し。然る間此糞袋を敵にし、念仏を以て申滅すへし。是れ念根を切る修行也。彼者云、然らば此身を離る事と心得て置くべきや。師呵して曰く、心得て置くは悪き也。仏道と云ふは心得て置く事に非す、身心を修し尽す事也。
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『驢鞍橋』卷上一日或る俗来て曰く、承り及ふ故に是れ迄伺候仕る、一句示し給へ。師曰く、一人虚を伝ふれば、万人実と伝ふとて何者かおどけ者有りて、正三こそ名誉者なれ抔といへば、末々に聞き伝へ、扨は空をも翅り、光をも放つか抔と思ひ、正三見物に来り、変も無き老人なるを見て、皆興を醒さるゝ也。誠に我何の変もなき土禅門也。只死度くも無き間、何とぞして殺さるゝ事有りとも、何とも思はす、頸を指出して自由に死ぬ程に成りたさに修する也。されとも死は置いて餓鬼畜生を出でぬ也。是れを出度く思ふ心は、何とも思はず居る者には增さるへき歟。別に人に增りたる事無し。其方も聞かんと思はゝ一向のしろうとに成りめさるへし。彼者、秘し給ふと思ひ弥示し給へと云ふ。師曰く、我仏法の能き事を知らず、只我悪敷事を能く知りたる也。我友に成り、出入めされば、何時も我処に有る餓鬼畜生を懺悔して聞かせ申すべし。実に是の外によき事を知らず、ひげして云ふかと思ひめされんずな。無間に沈むほうぞ知らぬ也。
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