驢鞍橋 / 卷中
猫捕鼠。睜開兩眼。四脚撐々。只要拿鼠到口始得。縱有鷄犬在傍。亦不暇顧。參禪者亦復如是。只是憤然要明此理。縱八境交錯於前。亦不暇顧。師云はく、誠に憤然と守らば、面を出すもの有るへからす。我も此の機計りを人に授くる也。常に腹立たる時の機を用ゐよと云はずやと也。纔有別念。非但鼠兼走却猫兒。師云はく、憤然の機なく諸念に隨へは、自性に契はぬはかりではない、却て惡趣に墮して自己を損するぞと也。
新字:猫捕鼠。睜開両眼。四脚撐々。只要拿鼠到口始得。縦有鶏犬在傍。亦不暇顧。参禅者亦復如是。只是憤然要明此理。縦八境交錯於前。亦不暇顧。師云はく、誠に憤然と守らば、面を出すもの有るへからす。我も此の機計りを人に授くる也。常に腹立たる時の機を用ゐよと云はずやと也。纔有別念。非但鼠兼走却猫児。師云はく、憤然の機なく諸念に随へは、自性に契はぬはかりではない、却て悪趣に堕して自己を損するぞと也。
書き下し
猫の鼠を捕うるは、両眼を睜開し、四脚撐々として、只だ鼠を拿えて口に到らしめんことを要して始めて得たり。縦い鶏犬の傍に在る有るも、亦た顧みるに暇あらず。参禅の者も亦復た是くの如し。只だ是れ憤然として此の理を明らめんことを要す。縦い八境前に交錯するも、亦た顧みるに暇あらず。師云はく、誠に憤然と守らば、面を出すもの有るへからす。我も此の機計りを人に授くる也。常に腹立たる時の機を用ゐよと云はずやと也。纔かに別念有らば、但だ鼠のみに非ず兼ねて猫児をも走却せん。師云はく、憤然の機なく諸念に随へは、自性に契はぬはかりではない、却て悪趣に堕して自己を損するぞと也。
現代語訳
猫が鼠を捕らえるときは、両眼を見開き、四本の脚を踏ん張って、ただ鼠を捕まえて口に入れることだけを求めて、はじめてうまくいく。たとえ鶏や犬がそばにいても、振り向く暇はない。参禅する者もまた同じである。ただ奮い立ってこの道理を明らめようとするのだ。たとえ八つの境(利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽)が目の前に入り乱れても、振り向く暇はない。師は言われた。「まことに奮い立って守るなら、顔を出すもの(妄念)があるはずがない。私もこの機ばかりを人に授けている。いつも腹を立てたときの気合いを用いよ、と言っているではないか」。わずかでも別の思いがあれば、鼠を逃がすだけでなく、猫までも逃げ出してしまう。師は言われた。「奮い立つ機がなく、さまざまな念に従えば、自性にかなわないだけではない。かえって悪い世界に堕ちて自分を損なうのだぞ」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中博山禅警語に曰く、工夫を做すに、最初要ず箇の破生死の心を発すべし。堅硬に看破せよ、世界身心悉く是れ仮縁にして実の主宰無しと。若し本具底の大理を発明せずんば、則ち生死の心破れず。生死の心既に破れずんば、無常の殺鬼念念に停まらず、却って如何にか排遣せん。此の一念を将て箇の敲門の瓦子と作せ。烈火焔中に坐在して出でんことを求むるが如くに相似たり。乱りに一歩を行くことを得ず、一歩を停止することを得ず、別に一念を生ずることを得ず、別人の救いを望むことを得ず。恁麼の時に当たって、只だ須らく猛火を顧みず、身命を顧みず、人の救いを望まず、別念を生ぜず、暫くも止まることを肯わず、前に往いて直に奔るべし。奔り得て出づれば是れ好手なり。師云はく、誠に修行と云ふは、この破生死の心を起す一つ也。烈火焔中に坐在して出る事を求るが如くの心を以て切に用るはかり也。一僧問ふ、何れの一念か扣門瓦子なりや。師云はく、如何が排遣せんと通身より思ふが、自性に契ふ肝要扣門瓦子也。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、頭を擡ぐれども天を見ず、頭を低るれども地を見ず。山を看れども是れ山ならず、水を見れども是れ水ならず。行けども行くを知らず、坐せども坐するを知らず。千人万人の中にも一人有るを見ず。師云はく、深思ひ入たる人如是。万事目には見ても、心に見す、疑団まてもなし、急度たるまぬ様に用ゆれは、早や此位は知る物也。通身内外只だ是れ一箇の疑団。謂っつべし、世界を攪渾して疑団破れずんば誓って休心せずと。此れを工夫の緊要と為す。師云はく、此の疑団心さへあれは、悪趣に堕しても種子をおとさす、世世に於て終に道を成する也。此の心一度起らすして、何を以て自性に契はんや。我は此の心を勇猛の機と名く。此機を得れは、何たる事に逢ふても、種を失はす、万事に自由也。若し修道の人此の心なくんば、生死到来の時かならす種を落すべしと也。
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『驢鞍橋』卷中外道は身心をして断滅して化して頑石と為らしむ。亦た静境より入る。良に歳久しく月深きを以て、之を枯らし又た枯らし、之を寂し又た寂して、無知無覚に堕す、木石と何ぞ異ならん。吾人或いは静境に処するも、祇だ衣線下一段の大事を発明せんと要す。静境に在ることを知らずして始めて得べし。大事の中に於て其の静相を求むるに、了に得べからず。斯れを得たりと為す。因に衆に語て云はく、我も始めより静境に依て入らしむる事をせす、日本橋の市中にて用ひ習へ、又閙の声の中に坐禅せよ抔と教ゆる也。
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『驢鞍橋』卷下一日、沈坐禅を作す者に示して云ふ、詮なきことを作さんより、只死ぬことをし習ひめされよ、別のことは入らぬ也。無理死に死習つて、夢中ともに抜けぬほどにすべし。扨て又只今打腐るゝ腐物を秘蔵して居ること哉。熱い寒い、痛い痒い、一つとして苦ならずと云ふことなし。扨てもいやな苦体哉と、きつと睨付けて、平生境界と張合て居る念を起すべし。我上にはさも見えまいが、我と機を着て見れば、奥牙を咬合せ、眼をすゑてきつと睨着けて居る機に成て常住ある也。またよう若き時から如是有りし也。奥牙と云はねば云はれぬに仍て云ふ、奥牙ではなし、奥牙と前歯との間の歯也。之をきつと食合せ、眼をすゑ、じりじりと睨付けて居る機也。爰を以て果眼坐禅と云ふ也。又自らきつとねぢ廻はしたるまねをなして曰く、八幡と云つてかう懸つた時、爰にすわつた機か有る、之を云ふ也。この機を用ひば、諸念自ら碍るべからず。我坐禅は此の如し。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふは勇猛の機一つ也。此心無くんば何たる行業も何たる善心も、皆徒事也。如来坐禅と二王坐禅と、あまり隔てあるべからず。面に現はしたると内に用ゐたるの替りなるべし。勇猛の機なくして、なにとして凡夫心にて死する時少しも使はれんや。亦なにを以て一切に勝つへきや。我は此機を頓て修し出したる間、人毎に頓て移らんずと思へとも、一人でも受けたる者なし。然れば是れ迄も修し付け難く、移し難き物と見えたり。時に去る者問、如何様にして此機を修し出すべきや。師示日、眼をすゑて死習ふ外なし。此糞袋をかたきにしてひた責めに責むべし。我が書く処の捨身の位、自己を守るの位をよく見て修せば、必す此機自然に起るへしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日若き侍両人来り、修行の用心を問ふ。師彼に問て曰く、其方達は何役をめさるゝや、時に一人広間番を仕ると云ふ。師示して曰、狼藉者に於ては縦ひ樊噲張良也とも、八幡通すましと急度ねぢまわして番を作すべし。是れ則ち坐禅也。別に用心有るべからず。亦一人は供番也と云ふ。師示して曰、何者にてもあれうろたへ者、又は逆心の者出来らば、忽ち無手と引組んて指違へんと、急度死を窮め、眼をすゑて供を作すべし。是れ則ち坐禅也。機を抜かして供を成さば、用に立つべからずと也。
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