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驢鞍橋 / 卷中

同錄曰。臨濟。一日。與河陽木塔長老同在僧堂地爐內坐。因說。普化每日在街市掣風掣顛。知他是凡是聖。言猶未了。普化入衆來。濟便問。汝是凡是聖。普化云。汝且道。我是凡是聖。濟便喝。普化以手指云。河陽新婦子。木塔老婆禪。臨濟小廝兒。却具一隻眼。一僧問ふ、此の三長老は、實に隻眼開いた人也や。師の云はく、中中普化の眼から見ては、三人共に無眼子なるべし。境界に大に替り有り、手を以て指して批判したる樣なこなしたるあいしらい有らんやと也。

新字:同録曰。臨済。一日。与河陽木塔長老同在僧堂地炉内坐。因説。普化毎日在街市掣風掣顛。知他是凡是聖。言猶未了。普化入衆来。済便問。汝是凡是聖。普化云。汝且道。我是凡是聖。済便喝。普化以手指云。河陽新婦子。木塔老婆禅。臨済小廝児。却具一隻眼。一僧問ふ、此の三長老は、実に隻眼開いた人也や。師の云はく、中中普化の眼から見ては、三人共に無眼子なるべし。境界に大に替り有り、手を以て指して批判したる様なこなしたるあいしらい有らんやと也。

書き下し

同録に曰く、臨済、一日、河陽・木塔長老と同じく僧堂の地炉内に在りて坐す。因みに説く、普化は毎日街市に在りて掣風掣顛す、知んぬ他は是れ凡か是れ聖か。言猶お未だ了らざるに、普化入衆し来る。済便ち問う、汝は是れ凡か是れ聖か。普化云く、汝且く道え、我は是れ凡か是れ聖か。済便ち喝す。普化手を以て指して云く、河陽は新婦子、木塔は老婆禅、臨済は小廝児、却って一隻眼を具す。一僧問ふ、此の三長老は、実に隻眼開いた人也や。師の云はく、中中普化の眼から見ては、三人共に無眼子なるべし。境界に大に替り有り、手を以て指して批判したる様なこなしたるあいしらい有らんやと也。

現代語訳

同じく『臨済録』にいう。臨済がある日、河陽と木塔の二人の長老と一緒に僧堂の囲炉裏に坐っていた。そこで話題にした。「普化は毎日街なかで風狂のふるまいをしているが、いったい凡人なのか聖者なのか」。言い終わらないうちに、普化が入ってきた。臨済はすぐに問うた。「お前は凡人か、聖者か」。普化は言った。「まずお前が言ってみよ、わしは凡人か聖者か」。臨済は一喝した。普化は手で指さして言った。「河陽は新妻、木塔は老婆禅、臨済は小僧っ子だが、それでも一つの眼をそなえている」。ある僧が問うた。「この三人の長老は、本当に片眼の開いた人なのでしょうか」。師は言われた。「なかなか、普化の眼から見れば、三人とも眼のない者であろう。境地には大きな違いがあるのだ。そうでなければ、手で指さして品定めするような、見下したあしらいができるだろうか」。

解説

普化は臨済と同時代の風狂の禅僧で、鈴を振って街を歩いたことで知られる。この問答で普化は、三人の長老をそれぞれ一言で品定めし、臨済にだけ「一隻眼」を認めた。僧はそれを額面どおりに受け取ったが、正三は、普化の境地から見れば三人とも眼のない者だと読む。褒め言葉の裏にある見下しを見抜け、というのである。評価の言葉をそのまま受け取らず、誰がどの高さから言っているかを見る姿勢は、人の評判を扱う現代の職場でも役に立つ。

この章句が説くこと

普化臨済一隻眼境界評価禅問答

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