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驢鞍橋 / 卷中

一日有外道。握雀兒問佛曰。生耶死耶。佛起跨門間曰。入那不入那。外道無對。師向衆云ふ、近代京五山派の或る長老の云ふ、佛の働は句比べなり。我ならは殺活在手裡と云はんと也。是れは佛の働是か、長老の語是か、各云ふて見よ。衆無語。師云ふ、長老の働は近頃負けた云ひやうなり。早彼か手裡に取りつき、殺活に取り付きたり。本より外道工み來る處也。若し外道中々我手裡殺活自由なりと云ふて、殺しも仕放ちも仕たらは、でかい佛の耻也。故に佛ちやつと門に跨り、入耶不入耶と却て大難をなじりかけ、ひしと機を奪ひ給ふ。是に於て外道隨分工み來たが、手の外を働れて、却て慷慨に逢ふた也。

新字:一日有外道。握雀児問仏曰。生耶死耶。仏起跨門間曰。入那不入那。外道無対。師向衆云ふ、近代京五山派の或る長老の云ふ、仏の働は句比べなり。我ならは殺活在手裡と云はんと也。是れは仏の働是か、長老の語是か、各云ふて見よ。衆無語。師云ふ、長老の働は近頃負けた云ひやうなり。早彼か手裡に取りつき、殺活に取り付きたり。本より外道工み来る処也。若し外道中々我手裡殺活自由なりと云ふて、殺しも仕放ちも仕たらは、でかい仏の耻也。故に仏ちやつと門に跨り、入耶不入耶と却て大難をなじりかけ、ひしと機を奪ひ給ふ。是に於て外道随分工み来たが、手の外を働れて、却て慷慨に逢ふた也。

書き下し

一日外道有り。雀児を握りて仏に問ひて曰く。生か死か。仏起ちて門間に跨りて曰く。入るか入らざるか。外道対無し。師衆に向て云ふ、近代京五山派の或る長老の云ふ、仏の働は句比べなり。我ならは殺活手裡に在りと云はんと也。是れは仏の働是か、長老の語是か、各云ふて見よ。衆語無し。師云ふ、長老の働は近頃負けた云ひやうなり。早彼か手裡に取りつき、殺活に取り付きたり。本より外道工み来る処也。若し外道中々我手裡殺活自由なりと云ふて、殺しも仕放ちも仕たらは、でかい仏の恥也。故に仏ちやつと門に跨り、入るか入らざるかと却て大難をなじりかけ、ひしと機を奪ひ給ふ。是に於て外道随分工み来たが、手の外を働れて、却て慷慨に逢ふた也。

現代語訳

ある日、一人の外道が雀を握って仏に問うた。「これは生きているか、死んでいるか」。仏は立ち上がって門の敷居をまたぎ、「私は入るか、入らないか」と言われた。外道は答えられなかった。師は僧たちに向かって言われた。「近ごろ京の五山派のある長老が、仏のこの働きは句の比べ合いにすぎない、自分なら『殺すも活かすも手の内にある』と言う、と言った。仏の働きが正しいか、長老の言葉が正しいか、めいめい言ってみよ」。僧たちは何も言わなかった。師は言われた。「長老の働きは、まったく負けた言い方である。早くも相手の手の内に取りつき、殺すか活かすかに取りついてしまっている。もともと外道はそこを企んで来たのだ。もし外道が『いや、私の手の内でこそ殺すも放すも自由だ』と言って、殺すなり放すなりしたら、とんでもない仏の恥になる。だから仏はさっと門をまたいで、入るか入らないかと逆に難題を突きつけ、ぴたりと相手の機を奪われたのだ。こうして外道はさんざん企んで来たのに、思いもよらない所を突かれて、かえって憤ることになったのである」。

解説

雀の生死を問う外道に、仏が門をまたいで入るか出るかと問い返したという話で、禅録によく引かれる。京の五山のある長老は、自分なら殺活は我が手にあると答えると言ったが、正三はこれを負けた答えだと断じた。雀を握っているのは外道であり、殺活の主導権を論じた時点で相手の土俵に乗っているからである。仏は答えずに同じ形の問いを返し、相手の仕掛けそのものを無効にした。交渉や議論で相手の用意した筋書きに乗らず、主導権を取り返す知恵として今も役に立つ。

この章句が説くこと

機主導権外道問答仏

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