立正安国論 / 『立正安国論』唐の武宗の先例
又案慈覺大師入唐巡禮記云唐武宗皇帝會昌元年勅令章敬寺鏡霜法師於諸寺傳彌陀念佛教每寺三日巡輪不絕同二年廻鶻國之軍兵等侵唐堺同三年河北之節度使忽起亂其後大蕃國更拒命廻鶻國重奪地元兵亂同秦項之代災火起邑里之際何況武宗大破佛法多滅寺塔不能撥亂遂以有事取意以此惟之法然者後鳥羽院御宇建仁年中之者也彼院御事旣在眼前然則大唐殘例吾朝顯證汝莫疑汝莫恠唯須捨以歸善塞源截根矣
新字:又案慈覚大師入唐巡礼記云唐武宗皇帝会昌元年勅令章敬寺鏡霜法師於諸寺伝弥陀念仏教毎寺三日巡輪不絶同二年廻鶻国之軍兵等侵唐堺同三年河北之節度使忽起乱其後大蕃国更拒命廻鶻国重奪地元兵乱同秦項之代災火起邑里之際何況武宗大破仏法多滅寺塔不能撥乱遂以有事取意以此惟之法然者後鳥羽院御宇建仁年中之者也彼院御事既在眼前然則大唐残例吾朝顕証汝莫疑汝莫恠唯須捨以帰善塞源截根矣
書き下し
又案ずるに、慈覚大師の入唐巡礼記に云く、唐の武宗皇帝、会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺に於て弥陀念仏の教を伝えしむ。寺毎に三日、巡輪して絶えず。同二年、廻鶻国の軍兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起こす。其の後、大蕃国更に命を拒み、廻鶻国重ねて地を奪う。元兵乱、秦・項の代に同じく、災火は邑里の際に起こる。何に況んや武宗は大いに仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を撥むること能わず、遂に以て事有り。意を取りて以て之を惟うに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事は既に眼前に在り。然れば則ち大唐の残例、吾が朝の顕証なり。汝疑うこと莫れ、汝恠しむこと莫れ。唯須く捨てて以て善に帰し、源を塞ぎ根を截つべし。
現代語訳
また考えるに、慈覚大師の『入唐巡礼記』にはこうあります。唐の武宗皇帝は会昌元年に勅命を出し、章敬寺の鏡霜法師に諸寺で阿弥陀念仏の教えを伝えさせました。寺ごとに三日ずつ、順々に途切れることなく行われました。会昌二年、廻鶻国の軍兵らが唐の国境を侵しました。三年には河北の節度使がたちまち反乱を起こしました。その後、大蕃国がさらに命令を拒み、廻鶻国が重ねて土地を奪いました。もとの兵乱は秦や項羽の時代と同じで、災いの火は村里の境にまで起こりました。ましてや武宗は仏法を大いに破り、多くの寺や塔を滅ぼしました。乱を治めることができず、ついに事が起こりました。この意味を取って考えると、法然は後鳥羽院の御代、建仁年中の人です。その院の出来事はすでに目の前にあります。ですから、大唐の残した例は、わが国での明らかな証拠です。あなたは疑ってはなりません、怪しんではなりません。ただひたすら謗法を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を断つべきです。
解説

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