臨済録 / 示衆
「道流!莫取山僧說處。何故?說無憑據。一期間圖畫虛空,如彩畫像等喻。道流!莫將佛為究竟,我見猶如廁孔。菩薩、羅漢盡是枷鎖、縛人底物。所以,文殊仗劍殺於瞿曇、鴦掘持刀害於釋氏。道流!無佛可得,乃至三乘、五性、圓頓教迹皆是一期藥病相治,並無實法。設有,皆是相似,表顯路布,文字差排,且如是說。
新字:「道流!莫取山僧説処。何故?説無憑拠。一期間図画虚空,如彩画像等喩。道流!莫将仏為究竟,我見猶如廁孔。菩薩、羅漢尽是枷鎖、縛人底物。所以,文殊仗剣殺於瞿曇、鴦掘持刀害於釈氏。道流!無仏可得,乃至三乗、五性、円頓教迹皆是一期薬病相治,並無実法。設有,皆是相似,表顕路布,文字差排,且如是説。
書き下し
道流、山僧が説く處を取る莫かれ。何が故ぞ。説は憑據無ければなり。一期の間、虛空に圖畫す。彩畫の像等の喩の如し。道流、佛を將って究竟と為す莫かれ。我が見るには猶ほ廁孔の如し。菩薩・羅漢は盡く是れ枷鎖、人を縛る底の物なり。所以に文殊は劍を仗って瞿曇を殺し、鴦掘は刀を持って釋氏を害す。道流、佛の得べき無し。乃至三乘・五性・圓頓の教迹も皆な是れ一期の藥病相治にして、並びに實法無し。設ひ有るも、皆な是れ相似、表顯、路布、文字の差排にして、且く是くの如く説くのみ。
現代語訳
道流よ、わしが説いたところを取るな。なぜか。説には拠りどころがないからだ。一時のあいだ、虚空に絵を描いているにすぎない。彩色した絵姿のたとえのようなものだ。道流よ、仏を究極のものとするな。わしが見るところ、便所の穴のようなものだ。菩薩や羅漢はみな枷であり鎖であって、人を縛るものだ。だから文殊は剣をとって瞿曇を殺し、鴦掘摩羅は刀を持って釈氏を害した。道流よ、仏に得るべきものはない。三乗も五性も円頓の教えの跡も、みな一時の、病に応じた薬にすぎず、実体のある法ではない。たとえあったとしても、みな似せたもの、示すためのもの、道しるべ、文字の並べ替えであって、しばらくそう言っているだけだ。
解説
この章句が説くこと
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『臨済録』示衆道流、爾如法の見解を得んと欲せば、但だ人の惑を受くる莫かれ。裏に向かひ外に向かひ、逢著すれば便ち殺せ。佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脫を得ん。物と拘はらず、透脫自在なり。諸方の學道流の如きは、未だ物に依らずして出で來る底有らず。山僧、此の間に向かって頭より打つ。手上より出で來れば手上に打ち、口裏より出で來れば口裏に打ち、眼裏より出で來れば眼裏に打つ。未だ一箇の獨脫して出で來る底有らず。皆な是れ他の古人の閑機境に上る。山僧一法の人に與ふる無し。秖だ是れ病を治し縛を解くのみ。爾諸方の道流、試みに物に依らずして出で來れ。我れ爾と共に商量せんことを要す。十年五歲並びに一人も無し。皆な是れ草に依り葉に附く竹木の精靈、野狐の精魅にして、一切の糞塊の上に向かって亂咬する瞎漢なり。枉げて他の十方の信施を消して、我は是れ出家兒なりと道ふ。是くの如きの見解を作す。爾に向かって道はん、『佛無く、法無く、修無く、證無し。秖だ與麼に傍家に擬して什麼物をか求めん』と。瞎漢、頭上に頭を安く。是れ爾に什麼をか欠少せる。
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『臨済録』示衆爾秖麼に他の閑名を認めて実と為す、大いに錯り了れり。設い有るも、皆な是れ依変の境なり。箇の菩提依・涅槃依・解脱依・三身依・境智依・菩薩依・仏依有り。爾、依変の国土の中に向かって什麼物をか覓む。乃至三乗十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙なり。仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。爾還って是れ娘生なりや否や。爾若し仏を求むれば、即ち仏魔に摂せられ、爾若し祖を求むれば、即ち祖魔に縛せらる。爾若し求むること有らば皆な苦なり。如かず無事ならんには。一般の禿比丘有り、学人に向かって道う、『仏は是れ究竟なり。三大阿僧祇劫に於いて修行果満して、方に始めて成道す。』道流、爾若し仏は是れ究竟なりと道わば、什麼に縁ってか八十年後、拘尸羅城の双林樹間に向かって側臥して死し去る。仏今何くにか在る。明らかに知んぬ、我が生死と別ならざることを。爾言う、三十二相・八十種好は是れ仏なりと。転輪聖王も応に是れ如来なるべし。明らかに知んぬ、是れ幻化なることを。古人云く、『如来の挙身の相は、世間の情に順ぜんが為なり。人の断見を生ぜんことを恐れて、権に且く虚名を立つ。仮に三十二と言い、八十も也た空声なり。有身は覚体に非ず、無相乃ち真形なり。』
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『臨済録』示衆道流、真佛は形無く、真法は相無し。爾秖麼に幻化の上頭に模を作し樣を作す。設ひ求め得る者も、皆な是れ野狐精魅にして、並びに是れ真佛にあらず、是れ外道の見解なり。夫れ真の學道人の如きは、並びに佛を取らず、菩薩・羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず、逈かに獨脫無くして物と拘はらず。乾坤倒覆するも我れ更に疑はず。十方の諸佛現前するも一念の心喜ぶこと無く、三塗地獄頓かに現ずるも一念の心怖るること無し。緣何ぞ此くの如き。我れ諸法の空相を見るに、變ずれば即ち有り、變ぜざれば即ち無し。三界は唯だ心、萬法は唯だ識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉するを勞せん。唯だ道流の目前現今に法を聽く底の人有るのみ。火に入るも燒けず、水に入るも溺れず、三塗地獄に入るも園觀に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入るも報を受けず。緣何ぞ此くの如き。嫌ふ底の法無ければなり。爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。煩惱は心に由るが故に有り。無心なれば煩惱何ぞ拘へん。分別して相を取るを勞せずんば、自然に道を得ること須臾ならん。
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『臨済録』示衆円頓の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向かって凡を厭い聖を忻う。此の如きの流は取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。禅宗の見解の如きは、又た且つ然らず。直に是れ現今にして、更に時節無し。山僧が説く処は、皆な是れ一期の薬病相治にして、総に実法無し。若し是の如く見得せば、是れ真の出家、日に万両の黄金を消す。道流、取次に諸方の老師に面門を印破せられて、我れ禅を解し道を解すと道うこと莫かれ。弁は懸河に似たるも、皆な是れ地獄の業を造る。若し是れ真正の学道人ならば、世間の過を求めず、切急に真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解に達して円明ならば、方に始めて了畢す。」問う、「如何なるか是れ真正の見解。」師云く、「爾但だ一切、凡に入り聖に入り、染に入り浄に入り、諸仏の国土に入り、弥勒の楼閣に入り、毘盧遮那の法界に入って、処処に皆な国土の成住壊空を現ず。仏、世に出でて大法輪を転じ、却って涅槃に入るも、去来の相貌有るを見ず。其の生死を求むるに了に得べからず。便ち無生の法界に入って、処処に国土に游履し、華蔵世界に入って、尽く諸法の空相を見る。皆な実法無し。
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『臨済録』示衆爾が一念心の疑ふ處、是れ魔なり。爾若し萬法無生、心は幻化の如く、更に一塵・一法も無しと達得せば、處處清淨、是れ佛なり。然れども佛と魔とは是れ染・淨の二境なり。山僧が見處に約せば、佛無く、眾生無く、古無く、今無し。得る者は便ち得て、時節を歷ず。修無く、證無く、得無く、失無く、一切時中更に別法無し。設ひ一法の此に過ぐる者有らば、我れ説かん、夢の如く化の如しと。山僧が説く所は皆な是れなり。道流、即今目前に孤明歷歷地として聽く者、此の人處處に滯らず、十方に通貫し、三界に自在なり。一切の境差別に入るも回換すること能はず、一剎那の間に法界に透入し、佛に逢うては佛を説き、祖に逢うては祖を説き、羅漢に逢うては羅漢を説き、餓鬼に逢うては餓鬼を説く。一切處に向かって國土に游履し眾生を教化するも、未だ嘗て一念を離れず。隨處に清淨、光は十方に透り、萬法一如なり。道流、大丈夫兒、今日方に本來無事なるを知る。秖だ爾が信ずること及ばず、念念に馳求し、頭を捨てて頭を覓め、自ら歇むこと能はざるが為なり。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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