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臨済録 / 示衆

爾秖麼認他閑名為實,大錯了也。設有,皆是依變之境。有箇菩提依、涅槃依、解脫依、三身依、境智依、菩薩依、佛依。爾向依變國土中覓什麼物?乃至三乘十二分教,皆是拭不淨故紙。佛是幻化身,祖是老比丘,爾還是娘生已否?爾若求佛,即被佛魔攝;爾若求祖,即被祖魔縛;爾若有求皆苦,不如無事。有一般禿比丘向學人道:『佛是究竟,於三大阿僧祇劫修行果滿方始成道。』道流!爾若道佛是究竟,緣什麼八十年後向拘尸羅城雙林樹間側臥而死去?佛今何在?明知與我生死不別。爾言三十二相、八十種好是佛,轉輪聖王應是如來,明知是幻化。古人云:『如來舉身相,為順世間情,恐人生斷見,權且立虛名。』假言三十二、八十也,空聲有身非覺體,無相乃真形。

新字:爾秖麼認他閑名為実,大錯了也。設有,皆是依変之境。有箇菩提依、涅槃依、解脱依、三身依、境智依、菩薩依、仏依。爾向依変国土中覓什麼物?乃至三乗十二分教,皆是拭不浄故紙。仏是幻化身,祖是老比丘,爾還是娘生已否?爾若求仏,即被仏魔摂;爾若求祖,即被祖魔縛;爾若有求皆苦,不如無事。有一般禿比丘向学人道:『仏是究竟,於三大阿僧祇劫修行果満方始成道。』道流!爾若道仏是究竟,縁什麼八十年後向拘尸羅城双林樹間側臥而死去?仏今何在?明知与我生死不別。爾言三十二相、八十種好是仏,転輪聖王応是如来,明知是幻化。古人云:『如来舉身相,為順世間情,恐人生断見,権且立虚名。』仮言三十二、八十也,空声有身非覚体,無相乃真形。

書き下し

爾秖麼に他の閑名を認めて実と為す、大いに錯り了れり。設い有るも、皆な是れ依変の境なり。箇の菩提依・涅槃依・解脱依・三身依・境智依・菩薩依・仏依有り。爾、依変の国土の中に向かって什麼物をか覓む。乃至三乗十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙なり。仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。爾還って是れ娘生なりや否や。爾若し仏を求むれば、即ち仏魔に摂せられ、爾若し祖を求むれば、即ち祖魔に縛せらる。爾若し求むること有らば皆な苦なり。如かず無事ならんには。一般の禿比丘有り、学人に向かって道う、『仏は是れ究竟なり。三大阿僧祇劫に於いて修行果満して、方に始めて成道す。』道流、爾若し仏は是れ究竟なりと道わば、什麼に縁ってか八十年後、拘尸羅城の双林樹間に向かって側臥して死し去る。仏今何くにか在る。明らかに知んぬ、我が生死と別ならざることを。爾言う、三十二相・八十種好は是れ仏なりと。転輪聖王も応に是れ如来なるべし。明らかに知んぬ、是れ幻化なることを。古人云く、『如来の挙身の相は、世間の情に順ぜんが為なり。人の断見を生ぜんことを恐れて、権に且く虚名を立つ。仮に三十二と言い、八十も也た空声なり。有身は覚体に非ず、無相乃ち真形なり。』

現代語訳

(前の説法の続きである。)お前たちはただ役にも立たない名前を実在だと思い込んでいる。大間違いだ。たとえ何かがあるとしても、それはみな拠りどころに応じて移り変わる境である。菩提という拠りどころ、涅槃という拠りどころ、解脱という拠りどころ、三身という拠りどころ、境と智という拠りどころ、菩薩という拠りどころ、仏という拠りどころがある。お前たちは、そんな移り変わる国土の中で何を探しているのか。三乗(声聞・縁覚・菩薩の三つの教え)や十二分教(経典の十二の分類)でさえ、みな不浄を拭う反故紙にすぎない。仏は幻の身、祖師は年老いた坊主にすぎない。お前たちこそ母親から生まれた者ではないのか。仏を求めれば仏という魔に捕らえられ、祖師を求めれば祖師という魔に縛られる。求めることがあれば、それはみな苦である。何事もないにこしたことはない。ある坊主どもは修行者に向かって、「仏は究極である。三大阿僧祇劫にわたって修行を満たし、そこで初めて悟りを成就したのだ」と言う。修行者たちよ、仏が究極だと言うなら、なぜ八十歳で拘尸羅城(くしなら、釈迦入滅の地)の沙羅双樹の間に横たわって死んだのか。仏は今どこにいるのか。わたしたちの生き死にと何も違わないと明らかに分かる。お前たちは三十二相と八十種好(仏の身に備わるとされる優れた特徴)があるのが仏だと言う。それなら転輪聖王(てんりんじょうおう、理想の帝王、同じ相を備えるとされる)も如来ということになる。それが幻だと明らかに分かる。古人は言った。「如来が身に表す姿は、世間の人の気持ちに合わせるためのものである。人が(何も無いという)断見に陥るのを恐れて、仮にひとまず空しい名前を立てたのだ。仮に三十二と言い、八十と言うのも空しい声にすぎない。形ある身は悟りの本体ではなく、形のないものこそ真の姿である。」

解説

菩提も涅槃も解脱も、仏も菩薩も、すべて「依」、つまり寄りかかるための仮の拠りどころにすぎないと臨済は言う。三乗十二分教を不浄を拭う反故紙と呼び、仏は幻の身、祖師は老いた坊主だと言い放つのは、有名な「仏に逢うては仏を殺せ」と同じ精神である。釈迦も八十歳で死んだではないか、という指摘は、仏を究極の実体として外に祭り上げる見方を突き崩す。臨済の言葉は冒涜ではなく、どんな尊い名にも寄りかからない主体を求めている。業界の常識や成功者の名前、理念の言葉も、寄りかかった途端に自分を縛る魔になる。名前ではなく、今それを使っている自分が何者かを問うことが大切である。

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