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臨済録 / 示衆

爾若自信不及,即便忙忙地徇一切境轉,被他萬境回換,不得自由。爾若能歇得念念馳求心,便與祖佛不別。爾欲得識祖佛麼?秖爾面前聽法底。是學人信不及,便向外馳求。設求得者,皆是文字勝相,終不得他活祖意。莫錯諸禪德,此時不遇,萬劫千生輪回三界,徇好境掇去,驢牛肚裏生。道流!約山僧見處,與釋迦不別。今日多般用處,欠少什麼?六道神光未曾間歇,若能如是見得,秖是一生無事人。大德!三界無安,猶如火宅,此不是爾久停住處。無常殺鬼一剎那間,不揀貴、賤、老、少。爾要與祖佛不別,但莫外求。爾一念心上清淨光,是爾屋裏法身佛;爾一念心上無分別光,是爾屋裏報身佛;爾一念心上無差別光,是爾屋裏化身佛。此三種身是爾即今目前聽法底人,秖為不向外馳求,有此功用。據經論家取三種身為極則,約山僧見處不然,此三種身是名言、亦是三種依。古人云:『身依義立,土據體論。』法性身、法性土,明知是光影。大德!爾且識取弄光影底人是諸佛之本源,一切處是道流歸舍處。是爾四大色身不解說法聽法、脾胃肝膽不解說法聽法、虛空不解說法聽法,是什麼解說法聽法?

新字:爾若自信不及,即便忙忙地徇一切境転,被他万境回換,不得自由。爾若能歇得念念馳求心,便与祖仏不別。爾欲得識祖仏麼?秖爾面前聴法底。是学人信不及,便向外馳求。設求得者,皆是文字勝相,終不得他活祖意。莫錯諸禅徳,此時不遇,万劫千生輪回三界,徇好境掇去,驢牛肚裏生。道流!約山僧見処,与釈迦不別。今日多般用処,欠少什麼?六道神光未曽間歇,若能如是見得,秖是一生無事人。大徳!三界無安,猶如火宅,此不是爾久停住処。無常殺鬼一刹那間,不揀貴、賤、老、少。爾要与祖仏不別,但莫外求。爾一念心上清浄光,是爾屋裏法身仏;爾一念心上無分別光,是爾屋裏報身仏;爾一念心上無差別光,是爾屋裏化身仏。此三種身是爾即今目前聴法底人,秖為不向外馳求,有此功用。拠経論家取三種身為極則,約山僧見処不然,此三種身是名言、亦是三種依。古人云:『身依義立,土拠体論。』法性身、法性土,明知是光影。大徳!爾且識取弄光影底人是諸仏之本源,一切処是道流帰舎処。是爾四大色身不解説法聴法、脾胃肝胆不解説法聴法、虚空不解説法聴法,是什麼解説法聴法?

書き下し

爾若し自ら信不及ならば、即便ち忙忙地に一切の境に徇って転じ、他の万境に回換せられて、自由を得ず。爾若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず。爾、祖仏を識らんと欲得すや。秖だ爾が面前聴法底、是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求す。設い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終に他の活祖意を得ず。錯ること莫かれ、諸禅徳。此の時遇わずんば、万劫千生、三界に輪回し、好境に徇って掇し去り、驢牛の肚裏に生ぜん。道流、山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処、什麼をか欠少す。六道の神光、未だ曾て間歇せず。若し能く是の如く見得せば、秖だ是れ一生無事の人なり。大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。此れは是れ爾が久しく停住する処にあらず。無常の殺鬼は一刹那の間に、貴賤老少を揀ばず。爾、祖仏と別ならざらんと要せば、但だ外に求むること莫かれ。爾が一念心上の清浄の光は、是れ爾が屋裏の法身仏なり。爾が一念心上の無分別の光は、是れ爾が屋裏の報身仏なり。爾が一念心上の無差別の光は、是れ爾が屋裏の化身仏なり。此の三種の身は、是れ爾が即今目前聴法底の人なり。秖だ外に向かって馳求せざるが為に、此の功用有り。経論家に拠らば、三種の身を取って極則と為す。山僧が見処に約せば然らず。此の三種の身は是れ名言なり、亦た是れ三種の依なり。古人云く、『身は義に依って立し、土は体に拠って論ず。』法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ光影なることを。大徳、爾且く光影を弄する底の人を識取せよ。是れ諸仏の本源、一切処是れ道流が帰舎の処なり。是れ爾が四大の色身は説法聴法を解せず、脾胃肝胆は説法聴法を解せず、虚空は説法聴法を解せず。是れ什麼か説法聴法を解する。

現代語訳

お前たちが自分を信じきれなければ、せわしなくあらゆる対象に引きずり回され、無数の境遇に振り回されて、自由を得られない。一瞬一瞬外へ追い求める心を止めることができれば、そのまま祖師や仏と何も違わない。祖師や仏を知りたいか。今わたしの目の前で法を聞いているお前、それがそうだ。修行者は自分を信じきれないから、外へ追い求める。たとえ何かを手に入れても、それはみな文字の上のもっともらしい姿にすぎず、生きた祖師の心には決して届かない。諸君、間違えるな。今この時に出会わなければ、果てしない時を三界(欲界・色界・無色界の迷いの世界)に生まれ変わり死に変わり、好ましい境遇を追いかけて拾い集め、ロバや牛の腹に生まれることになる。修行者たちよ、わたしの見るところ、お前たちは釈迦と何も違わない。今日のさまざまなはたらきに、何が欠けているというのか。六つの感覚の門から放たれる不思議な光は、一度も途切れたことがない。このように見て取れれば、一生何事もない人である。諸君、三界には安らぎがなく、燃えさかる家のようなものだ。ここはお前たちが長くとどまる場所ではない。無常という人殺しの鬼は、一瞬のうちに、身分の貴賤も年の老若も選ばずに襲ってくる。祖師や仏と違わずにいたいなら、ただ外に求めるな。お前たちの一瞬の心に宿る清らかな光、それがお前たちの家の中の法身仏(真理そのものとしての仏)だ。一瞬の心に宿る分け隔てのない光、それが家の中の報身仏(修行の報いとして現れた仏)だ。一瞬の心に宿る差別のない光、それが家の中の化身仏(人々に応じて姿を現す仏)だ。この三つの身は、今まさに目の前で法を聞いているお前たちその人である。ただ外に追い求めないからこそ、このはたらきがある。経典や論書の学者たちは、この三つの身を究極の原理とするが、わたしの見るところはそうではない。この三つの身は名前にすぎず、また三つの拠りどころ(依)にすぎない。古人は「身は意味によって立てられ、国土は本体に基づいて論じられる」と言った。法性の身、法性の国土といっても、それは光の影だと明らかに分かる。諸君、まずはその光の影を操っている人を見届けよ。それこそが諸仏の本源であり、どこにいてもそこが修行者の帰る家である。お前たちの地水火風でできた肉体は、法を説くことも聞くこともできない。脾臓や胃や肝臓や胆嚢も、法を説くことも聞くこともできない。虚空も、法を説くことも聞くこともできない。では、何が法を説き、法を聞くことができるのか。

解説

臨済の示衆の核心が凝縮された一節である。自分を信じきれない者は外の対象に振り回され、自由を失う。追い求める心を止めれば、そのまま祖師や仏と変わらない。仏教学が立てる法身・報身・化身の三身も、臨済にかかれば「今ここで話を聞いているお前」の心のはたらきの別名にすぎない。経論の体系を否定するのではなく、それを握りしめて外に仏を探す姿勢を断つのである。最後の問い、肉体でも内臓でも虚空でもないなら、何が聞いているのか、は次の段の「無位の真人」へ向かう伏線になっている。資格や肩書き、他人の評価を探し回るより、今この仕事に向き合っている自分のはたらきを信じよ、という呼びかけとして読める。

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