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臨済録 / 示衆

爾一生秖作這箇見解,辜負這一雙眼,冷噤噤地如凍凌上驢駒相似。『我不敢毀善知識,怕生口業。』道流!夫大善知識始敢毀佛毀祖、是非天下、排斥三藏教、罵辱諸小兒、向逆順中覓人,所以我於十二年中求一箇業性,如芥子許不可得。若似新婦子禪師,便即怕趁出院,不與飯喫、不安不樂。自古先輩到處人不信,被遞出始知是貴。若到處人盡肯,堪作什麼?所以師子一吼,野干腦裂。道流!諸方說有道可修、有法可證。爾說證何法?修何道?爾今用處欠少什麼物?修補何處?後生小阿師不會,便即信這般野狐精魅,許他說事繫縛人,言道理行相應、護惜三業始得成佛,如此說者如春細雨。古人云:『路逢達道人,第一莫向道。』所以言:若人修道道不行,萬般邪境競頭生,智劍出來無一物,明頭未顯暗頭明。所以,古人云:『平常心是道。』大德!覓什麼物?現今目前聽法無依道人歷歷地分明,未曾欠少。爾若欲得與祖佛不別,但如是見,不用疑誤。爾心心不異,名之活祖。心若有異,則性相別;心不異故,即性相不別。」問:「如何是心心不異處?」師云:「爾擬問早異了也,性相各分,道流莫錯。世、出世諸法,皆無自性、亦無生性,但有空名,名字亦空。

新字:爾一生秖作這箇見解,辜負這一双眼,冷噤噤地如凍凌上驢駒相似。『我不敢毀善知識,怕生口業。』道流!夫大善知識始敢毀仏毀祖、是非天下、排斥三蔵教、罵辱諸小児、向逆順中覓人,所以我於十二年中求一箇業性,如芥子許不可得。若似新婦子禅師,便即怕趁出院,不与飯喫、不安不楽。自古先輩到処人不信,被逓出始知是貴。若到処人尽肯,堪作什麼?所以師子一吼,野干脳裂。道流!諸方説有道可修、有法可証。爾説証何法?修何道?爾今用処欠少什麼物?修補何処?後生小阿師不会,便即信這般野狐精魅,許他説事繋縛人,言道理行相応、護惜三業始得成仏,如此説者如春細雨。古人云:『路逢達道人,第一莫向道。』所以言:若人修道道不行,万般邪境競頭生,智剣出来無一物,明頭未顕暗頭明。所以,古人云:『平常心是道。』大徳!覓什麼物?現今目前聴法無依道人歴歴地分明,未曽欠少。爾若欲得与祖仏不別,但如是見,不用疑誤。爾心心不異,名之活祖。心若有異,則性相別;心不異故,即性相不別。」問:「如何是心心不異処?」師云:「爾擬問早異了也,性相各分,道流莫錯。世、出世諸法,皆無自性、亦無生性,但有空名,名字亦空。

書き下し

爾一生秖だ這箇の見解を作して、這の一双の眼に辜負す。冷噤噤地にして、凍凌上の驢駒の如くに相似たり。『我れ敢えて善知識を毀らず、口業を生ぜんことを怕る。』道流、夫れ大善知識にして始めて敢えて仏を毀り祖を毀り、天下を是非し、三蔵教を排斥し、諸の小児を罵辱し、逆順の中に向かって人を覓む。所以に我れ十二年中に於いて一箇の業性を求むるに、芥子許りの如きも得べからず。若し新婦子禅師に似たらば、便即ち院を趁い出されて、飯を与えて喫せしめられず、不安不楽ならんことを怕る。古よりの先輩は到る処に人信ぜず、遞出せられて始めて是れ貴きことを知る。若し到る処に人尽く肯わば、什麼をか作すに堪えん。所以に師子一吼すれば野干脳裂す。道流、諸方説く、道の修すべき有り、法の証すべき有りと。爾説け、何の法をか証し、何の道をか修す。爾今の用処、什麼物をか欠少す。何処をか修補せん。後生の小阿師会せず、便即ち這般の野狐精魅を信じ、他の事を説いて人を繋縛するを許す。言う、理行相応し、三業を護惜して始めて成仏することを得と。此の如く説く者は春の細雨の如し。古人云く、『路に達道の人に逢わば、第一に道に向かうこと莫かれ。』所以に言う、若し人道を修すれば道行われず、万般の邪境頭を競うて生ず。智剣出で来たれば一物も無し、明頭未だ顕れざるに暗頭明らかなり。所以に古人云く、『平常心是れ道。』大徳、什麼物をか覓む。現今目前聴法無依の道人、歴歴地に分明にして、未だ曾て欠少せず。爾若し祖仏と別ならざることを得んと欲せば、但だ是の如く見よ。疑誤することを用いず。爾が心心異ならざる、之を活祖と名づく。心若し異なること有らば、則ち性相別なり。心異ならざるが故に、即ち性相別ならず。」問う、「如何なるか是れ心心異ならざる処。」師云く、「爾問わんと擬すれば早く異なり了れり。性相各おの分かる。道流、錯ること莫かれ。世・出世の諸法は、皆な自性無く、亦た生性無し。但だ空名有るのみ、名字も亦た空なり。

現代語訳

(前の説法の続きである。)お前たちは一生こんな見方をして、せっかくの一対の眼を無駄にしている。凍えて縮こまり、凍った氷の上のロバの子のようにびくびくしている。「わたしは善知識をけなすようなことはしない。口の業をつくるのが怖いから」と言う。修行者たちよ、大善知識であってこそ、あえて仏をけなし祖師をけなし、天下のことの是非を論じ、三蔵の教えを退け、子どものような連中を罵り、逆らう者にも従う者にも、その中に本物の人を探すのだ。だからわたしは十二年のあいだ業の本性というものを探したが、芥子粒ほども見つからなかった。花嫁のようにおどおどした禅師なら、寺を追い出されて飯を食わせてもらえず、不安で楽しくなくなるのを恐れるだろう。昔から先達は、行く先々で人に信じられず、追い出されて初めてその尊さが知られた。行く先々で誰もがうなずくようなら、何の役に立つだろう。だから獅子が一声吼えれば、野干(やかん、狐の類)の脳が裂けるのだ。修行者たちよ、諸方では、修めるべき道があり、証るべき法があると説く。言ってみよ、どんな法を証り、どんな道を修めるのか。お前たちの今のはたらきに、何が欠けているのか。どこを繕うというのか。若い未熟な坊主たちはそれが分からず、こういう狐の化け物のような連中を信じ、そいつらが事をこしらえて人を縛るのを許してしまう。「理と行いがかなって、身口意の三業を大切に守って初めて仏になれる」と言う。こんなことを言う連中は、春の細かい雨のように(どこにでも降っている)。古人は「道に達した人に道で出会ったら、何よりも道について語ってはならない」と言った。だからこう言うのだ。人が道を修めようとすれば道は行われず、あらゆる邪な境が先を争って生じる。智慧の剣が抜かれれば一物もなく、明るさがまだ現れないうちに暗さが明るくなる、と。だから古人は「平常心こそが道だ」と言った。諸君、何を探しているのか。今、目の前で法を聞いている、何にも頼らぬ道人は、ありありとはっきりしていて、何一つ欠けたことがない。祖師や仏と違わずにいたいなら、ただこのように見よ。疑ったり迷ったりする必要はない。お前たちの心と心が異ならないこと、これを生きた祖師と呼ぶ。心がもし異なれば、本性と姿が別々になる。心が異ならないから、本性と姿も別にならない。」僧が問うた。「心と心が異ならないところとは何か。」師は言った。「お前が問おうとした時点で、もう異なってしまった。本性と姿がそれぞれ分かれた。修行者たちよ、間違えるな。世間のものも世間を超えたものも、どれも自らの本性がなく、生じる本性もない。ただ空しい名前があるだけで、その名前もまた空である。

解説

権威に遠慮してものを言えない修行者を、臨済は氷の上で震えるロバの子にたとえる。本物の善知識こそ仏祖をけなし、三蔵の教えを退けてでも本物の人を探すのであり、誰からも受け入れられる者に値打ちはない、と言い切る。「平常心是れ道」は馬祖道一の系統に伝わる言葉で、特別な修行の果てではなく、ふだんの心がそのまま道だという意味である。後半の問答で、心と心が異ならないところを問われ、問おうとした時点で既に分かれたと答えるのは、頭で分けて捉える働きそのものが隔てを生むことを示す。上司や前例への遠慮から言うべきことを飲み込む場面は多い。敬うことと、言いなりになることは別である。

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