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臨済録 / 示衆

「道流!如諸方有學人來,主客相見了,便有一句子語:『辨前頭善知識被學人拈出箇機權語路,向善知識口角頭攛過,看爾識不識。爾若識得是境,把得便拋向坑子裏。』學人便即尋常,然後便索善知識語,依前奪之。學人云:『上智哉,是大善知識。』即云:『爾大不識好惡。』如善知識把出箇境塊子,向學人面前弄,前人辨得下下作主,不受境惑。善知識便即現半身,學人便喝。善知識又入一切差別語路中擺撲,學人云:『不識好惡老禿奴。』善知識歎曰:『真正道流。』如諸方善知識不辨邪正,學人來問菩提涅槃三身境智,瞎老師便與他解說,被他學人罵著,便把棒打他,言:『無禮度。』自是爾善知識無眼,不得嗔他。有一般不識好惡禿奴,即指東劃西——好晴、好雨、好燈籠露柱——爾看眉毛有幾莖,這箇具機緣學人不會,便即心狂。如是之流總是野狐精、魅、魍、魎,被他好學人嗌嗌微笑,言瞎老禿奴惑亂他天下人。「道流!出家兒且要學道,秖如山僧往日曾向毘尼中留心,亦曾於經論尋討。後方知是濟世藥表顯之說,遂乃一時拋却,即訪道參禪。後遇大善知識,方乃道眼分明,始識得天下。老和尚知其邪正,不是娘生下便會,還是體究練磨一朝自省。

新字:「道流!如諸方有学人来,主客相見了,便有一句子語:『弁前頭善知識被学人拈出箇機権語路,向善知識口角頭攛過,看爾識不識。爾若識得是境,把得便抛向坑子裏。』学人便即尋常,然後便索善知識語,依前奪之。学人云:『上智哉,是大善知識。』即云:『爾大不識好悪。』如善知識把出箇境塊子,向学人面前弄,前人弁得下下作主,不受境惑。善知識便即現半身,学人便喝。善知識又入一切差別語路中擺撲,学人云:『不識好悪老禿奴。』善知識嘆曰:『真正道流。』如諸方善知識不弁邪正,学人来問菩提涅槃三身境智,瞎老師便与他解説,被他学人罵著,便把棒打他,言:『無礼度。』自是爾善知識無眼,不得嗔他。有一般不識好悪禿奴,即指東劃西——好晴、好雨、好灯籠露柱——爾看眉毛有幾茎,這箇具機縁学人不会,便即心狂。如是之流総是野狐精、魅、魍、魎,被他好学人嗌嗌微笑,言瞎老禿奴惑乱他天下人。「道流!出家児且要学道,秖如山僧往日曽向毘尼中留心,亦曽於経論尋討。後方知是済世薬表顕之説,遂乃一時抛却,即訪道参禅。後遇大善知識,方乃道眼分明,始識得天下。老和尚知其邪正,不是娘生下便会,還是体究練磨一朝自省。

書き下し

「道流、諸方に学人有って来たるが如きは、主客相見し了って、便ち一句子の語有り。『前頭の善知識を弁ぜんとして、学人箇の機権の語路を拈出して、善知識の口角頭に向かって攛過し、爾識るや識らずやと看る。爾若し是れ境なることを識得せば、把得して便ち坑子の裏に向かって拋つ。』学人便即ち尋常にして、然る後に便ち善知識の語を索む。前に依って之を奪う。学人云く、『上智なる哉、是れ大善知識。』即ち云く、『爾大いに好悪を識らず。』善知識の如きは、箇の境塊子を把出して、学人の面前に向かって弄す。前人弁得して下下に主と作り、境惑を受けず。善知識便即ち半身を現ず。学人便ち喝す。善知識又た一切差別の語路の中に入って擺撲す。学人云く、『好悪を識らざる老禿奴。』善知識歎じて曰く、『真正の道流。』諸方の善知識の如きは邪正を弁ぜず。学人来たって菩提・涅槃・三身・境智を問えば、瞎老師便ち他の与に解説し、他の学人に罵著せられて、便ち棒を把って他を打って、言う、『礼度無し。』自ら是れ爾善知識の眼無きなり、他を嗔ることを得ず。一般の好悪を識らざる禿奴有り、即ち東を指し西を劃し、晴を好み雨を好み、燈籠露柱を好む。爾看よ、眉毛幾茎か有る。這箇機縁を具す。学人会せず、便即ち心狂す。是の如きの流は総に是れ野狐精魅魍魎なり。他の好学人に嗌嗌として微笑せられ、言う、瞎老禿奴、他の天下の人を惑乱すと。「道流、出家児は且く道を学ばんことを要す。秖だ山僧往日の如きは、曾て毘尼の中に向かって心を留め、亦た曾て経論に於いて尋討す。後に方に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂乃ち一時に拋却し、即ち道を訪い禅に参ず。後に大善知識に遇うて、方乃ち道眼分明にして、始めて天下の老和尚を識得し、其の邪正を知る。是れ娘生下にして便ち会するにあらず、還って是れ体究練磨して一朝に自ら省す。

現代語訳

「修行者たちよ、諸方から修行者がやって来ると、主と客が顔を合わせたあと、すぐに一句のやりとりがある。「前にいる善知識を見定めようとして、修行者はからくりのある言葉の筋道を持ち出し、善知識の口元へ投げつけて、分かるか分からないかを見る。お前がそれを境だと見抜けば、つかんですぐに穴の中へ投げ捨てる。」すると修行者は普通の態度に戻り、そのうえで善知識の言葉を求める。善知識は先と同じようにそれを奪う。修行者が「なんと智慧の深いことか、まさに大善知識だ」と言うと、善知識は「お前はまったく善し悪しが分かっていない」と言う。また善知識が一つの境のかたまりを持ち出して、修行者の目の前でもてあそぶ。前の者(修行者)がそれを見抜いて一つひとつ主となり、境に惑わされない。善知識が半身を現す(半ば手の内を見せる)と、修行者はすぐに喝する。善知識がさらにあらゆる差別の言葉の筋道に入り込んで揺さぶると、修行者は「善し悪しの分からない老いぼれ坊主め」と言う。善知識は感嘆して「真正の修行者だ」と言う。諸方の善知識の中には、正邪の見分けがつかない者がいる。修行者がやって来て菩提・涅槃・三身・境智について問うと、目の見えぬ老師はすぐにそれを解説してやり、その修行者に罵られると、棒を取って打ち、「無礼者め」と言う。もともと善知識のお前に眼がないのであって、相手を怒る筋合いはない。善し悪しの分からない坊主どもがいて、東を指し西を描き、晴れがよい、雨がよい、灯籠や柱がよいと言う。お前たち見よ、(そんなことを言う者の)眉毛は何本残っているか(嘘の説法をすると眉毛が抜けるという)。ここにこそ機縁が備わっているのに、修行者は分からず、すぐに心を狂わせる。こういう連中はみな狐の化け物、魑魅魍魎である。良い修行者にくすくすと笑われ、「目の見えぬ老いぼれ坊主が天下の人を惑わしている」と言われる。修行者たちよ、出家した者は何よりも道を学ばねばならない。わたし自身、かつては毘尼(びに、戒律)に心を注ぎ、経論も探究した。のちにそれらが世を救う薬であり、表向きに示した説にすぎないと知って、一度にすべて投げ捨て、道を訪ね禅に参じた。のちに大善知識に出会って、ようやく道を見る眼がはっきりし、初めて天下の老和尚たちを見抜き、その正邪を知った。これは生まれつき分かっていたのではない。やはり身をもって究め、練り磨いて、ある朝ふと自ら気づいたのである。

解説

修行者と師家が出会ったときの、言葉による探り合いの様子を描いた段である。修行者が罠のある言葉を投げ、師がそれを見抜いて捨てる。師が境を示し、修行者がそれに惑わされず主となる。互いに相手の眼を試す緊張が、四賓主の考えの具体例として語られている。一方で、問われるままに教学を解説し、罵られると棒で打つ眼のない師を臨済は厳しく批判する。後半では自らの遍歴を語り、戒律と経論を学んだうえで捨て、禅に参じて大善知識、すなわち黄檗に出会い、練り磨いた末にある朝気づいたと言う。生まれつき分かる者はいない。部下に試されたとき怒るか見抜くかで、上に立つ者の眼が問われるのである。

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