臨済録 / 示衆
道流!真佛無形、真法無相,爾秖麼幻化上頭作模作樣,設求得者,皆是野狐精魅,並不是真佛,是外道見解。夫如真學道人,並不取佛、不取菩薩、羅漢、不取三界殊勝,逈無獨脫不與物拘,乾坤倒覆我更不疑,十方諸佛現前無一念心喜,三塗地獄頓現無一念心怖。緣何如此?我見諸法空相,變即有、不變即無,三界唯心、萬法唯識,所以夢幻空花何勞把捉?唯有道流目前現今聽法底人,入火不燒、入水不溺、入三塗地獄如遊園觀、入餓鬼畜生而不受報。緣何如此?無嫌底法。爾若愛聖憎凡,生死海裏沈浮。煩惱由心故有,無心煩惱何拘?不勞分別取相,自然得道須臾。爾擬傍家波波地學得,於三祇劫中終歸生死,不如無事向叢林中床角頭交脚坐。
新字:道流!真仏無形、真法無相,爾秖麼幻化上頭作模作様,設求得者,皆是野狐精魅,並不是真仏,是外道見解。夫如真学道人,並不取仏、不取菩薩、羅漢、不取三界殊勝,逈無独脱不与物拘,乾坤倒覆我更不疑,十方諸仏現前無一念心喜,三塗地獄頓現無一念心怖。縁何如此?我見諸法空相,変即有、不変即無,三界唯心、万法唯識,所以夢幻空花何労把捉?唯有道流目前現今聴法底人,入火不焼、入水不溺、入三塗地獄如遊園観、入餓鬼畜生而不受報。縁何如此?無嫌底法。爾若愛聖憎凡,生死海裏沈浮。煩悩由心故有,無心煩悩何拘?不労分別取相,自然得道須臾。爾擬傍家波波地学得,於三祇劫中終帰生死,不如無事向叢林中床角頭交脚坐。
書き下し
道流、真佛は形無く、真法は相無し。爾秖麼に幻化の上頭に模を作し樣を作す。設ひ求め得る者も、皆な是れ野狐精魅にして、並びに是れ真佛にあらず、是れ外道の見解なり。夫れ真の學道人の如きは、並びに佛を取らず、菩薩・羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず、逈かに獨脫無くして物と拘はらず。乾坤倒覆するも我れ更に疑はず。十方の諸佛現前するも一念の心喜ぶこと無く、三塗地獄頓かに現ずるも一念の心怖るること無し。緣何ぞ此くの如き。我れ諸法の空相を見るに、變ずれば即ち有り、變ぜざれば即ち無し。三界は唯だ心、萬法は唯だ識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉するを勞せん。唯だ道流の目前現今に法を聽く底の人有るのみ。火に入るも燒けず、水に入るも溺れず、三塗地獄に入るも園觀に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入るも報を受けず。緣何ぞ此くの如き。嫌ふ底の法無ければなり。爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。煩惱は心に由るが故に有り。無心なれば煩惱何ぞ拘へん。分別して相を取るを勞せずんば、自然に道を得ること須臾ならん。
現代語訳
道流よ、真の仏に形はなく、真の法に姿はない。おまえたちはただ、幻の上に型を作り模様を作っている。たとえ求めて得られたとしても、それはみな野狐の精であって、真の仏ではなく、外道の見解である。真に道を学ぶ人は、仏を取らず、菩薩や羅漢を取らず、三界のすぐれたものを取らず、はるかに独り脱して物にかかずらわない。天地がひっくり返っても、わしはもう疑わない。十方の諸仏が目の前に現れても、一念の心も喜ばず、三悪道の地獄がたちまち現れても、一念の心も怖れない。なぜそうなのか。わしはあらゆるものが空の姿であると見ているからだ。変ずればあり、変じなければない。三界はただ心であり、万法はただ識である。だから夢まぼろし空に見える花を、どうしてつかもうと骨を折るのか。ただ、道流よ、目の前にいまこの法を聴いている人がいるだけだ。火に入っても焼けず、水に入っても溺れず、三悪道の地獄に入っても庭園に遊ぶようであり、餓鬼や畜生に入っても報いを受けない。なぜそうなのか。嫌うべき法がないからだ。おまえがもし聖を愛し凡を憎めば、生死の海に浮き沈みする。煩悩は心があるから生じる。無心であれば、煩悩がどうして縛れようか。分別して姿を取ることに骨を折らなければ、自然に道を得ることは一瞬である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆道流、真佛は形無く、真道は體無く、真法は相無し。三法混融して一處に和合す。辨ずること既に得ざれば、喚んで忙忙たる業識の眾生と作す。
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『臨済録』示衆道流、切に真正の見解を求取して、天下に橫行し、這の一般の精魅に惑亂せらるるを免るるを要す。無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ。爾外に向かひ傍家に求めて脚手を覓めんと擬するは、錯り了れり。秖だ佛を求めんと擬するも、佛は是れ名句なり。爾還た馳求する底を識るや。三世十方の佛祖出で來るも也た秖だ法を求むるが為なり。如今參學の道流も也た秖だ法を求むるが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば依前として五道に輪回す。云何なるか是れ法。法とは是れ心法なり。心法は形無く、十方に通貫し、目前に現に用ゐらる。人信ずること及ばず、便ち乃ち名を認め句を認め、文字の中に向かって意度を求む。佛法とは天地懸殊なり。道流、山僧が説法は、什麼の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、淨に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ爾が真俗凡聖にあらず。能く一切の真俗凡聖に名字を安著し、真俗凡聖は此の人に名字を安著すること得ず。道流、把得すれば便ち用ゐ、更に名字を著けざる、之を號して玄旨と為す。
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『臨済録』示衆爾が一念心の疑ふ處、是れ魔なり。爾若し萬法無生、心は幻化の如く、更に一塵・一法も無しと達得せば、處處清淨、是れ佛なり。然れども佛と魔とは是れ染・淨の二境なり。山僧が見處に約せば、佛無く、眾生無く、古無く、今無し。得る者は便ち得て、時節を歷ず。修無く、證無く、得無く、失無く、一切時中更に別法無し。設ひ一法の此に過ぐる者有らば、我れ説かん、夢の如く化の如しと。山僧が説く所は皆な是れなり。道流、即今目前に孤明歷歷地として聽く者、此の人處處に滯らず、十方に通貫し、三界に自在なり。一切の境差別に入るも回換すること能はず、一剎那の間に法界に透入し、佛に逢うては佛を説き、祖に逢うては祖を説き、羅漢に逢うては羅漢を説き、餓鬼に逢うては餓鬼を説く。一切處に向かって國土に游履し眾生を教化するも、未だ嘗て一念を離れず。隨處に清淨、光は十方に透り、萬法一如なり。道流、大丈夫兒、今日方に本來無事なるを知る。秖だ爾が信ずること及ばず、念念に馳求し、頭を捨てて頭を覓め、自ら歇むこと能はざるが為なり。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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『臨済録』示衆唯だ法を聽く無依の道人有るのみ、是れ諸佛の母なり。所以に佛は無依より生ず。若し無依を悟らば、佛も亦た得る無し。若し是くの如く見得する者は、是れ真正の見解なり。學人了せざるは、名句に執するが為に、他の凡聖の名に礙へられ、所以に其の道眼を障へて分明なることを得ず。秖だ十二分教の如きは皆な是れ表顯の説なり。學者會せずして、便ち表顯の名句上に向かって解を生ず。皆な是れ依倚して因果に落在し、未だ三界の生死を免れず。爾若し生死去住脫著自由なるを得んと欲せば、即今聽法底の人を識取せよ。形無く、相無く、根無く、本無く、住處無し。活撥撥地として、應に是れ萬種の施設なるも、用ゐる處は秖だ是れ處無し。所以に覓め著くれば轉た遠く、之を求むれば轉た乖く。之を號して祕密と為す。道流、爾箇の夢幻の伴子を認め著くる莫かれ。遲晚の中間に便ち無常に歸せん。
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