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臨済録 / 示衆

「夫如至理之道,非諍論而求激揚,鏗鏘以摧外道,至於佛祖相承更無別意。設有言教,落在化儀三乘、五性、人天因果,如圓頓之教,又且不然,童子善財皆不求過。大德!莫錯用心,如大海不停死屍,秖麼擔却擬天下走,自起見障以礙於心。日上無雲,麗天普照,眼中無翳、空裏無花。道流!爾欲得如法,但莫生疑,展則彌綸法界,收則絲髮不立,歷歷孤明未曾欠少。眼不見、耳不聞,喚作什麼物?古人云:『說似一物則不中。』爾但自家看,更有什麼。說亦無盡,各自著力。珍重。」

新字:「夫如至理之道,非諍論而求激揚,鏗鏘以摧外道,至於仏祖相承更無別意。設有言教,落在化儀三乗、五性、人天因果,如円頓之教,又且不然,童子善財皆不求過。大徳!莫錯用心,如大海不停死屍,秖麼担却擬天下走,自起見障以礙於心。日上無雲,麗天普照,眼中無翳、空裏無花。道流!爾欲得如法,但莫生疑,展則弥綸法界,収則糸髪不立,歴歴孤明未曽欠少。眼不見、耳不聞,喚作什麼物?古人云:『説似一物則不中。』爾但自家看,更有什麼。説亦無尽,各自著力。珍重。」

書き下し

夫れ至理の道の如きは、諍論して激揚を求め、鏗鏘として以て外道を摧くにあらず。佛祖相承に至っては更に別意無し。設ひ言教有るも、化儀の三乘・五性・人天因果に落在す。圓頓の教の如きは、又た且く然らず。童子善財も皆な過を求めず。大德、錯りて心を用ゐる莫かれ。大海の死屍を停めざるが如し。秖麼に擔却して天下を走らんと擬し、自ら見障を起こして以て心を礙ふ。日上に雲無く、麗天普く照らす。眼中に翳無く、空裏に花無し。道流、爾如法なるを得んと欲せば、但だ疑を生ずる莫かれ。展ぶれば則ち法界に彌綸し、收むれば則ち絲髮も立たず。歷歷孤明にして未だ嘗て欠少せず。眼に見えず、耳に聞こえず、喚んで什麼物と作す。古人云く、『一物に似たりと説くも則ち中らず』と。爾但だ自家に看よ、更に什麼か有らん。説くも亦た盡くる無し。各自著力せよ。珍重。

現代語訳

そもそも至理の道というものは、議論して勢いを競い、音高く外道を打ち砕くようなものではない。仏祖の相承ということについても、格別の意図などない。たとえ言葉の教えがあっても、それは導きの方便としての三乗や五性、人天の因果に落ちてしまう。円頓の教えはといえば、またそうではない。童子の善財も、みな過ちを求めはしなかった。大徳よ、間違って心を用いるな。大海が死骸を留めておかないようなものだ。それを背負ったまま天下を駆け回ろうとして、自分から見解の障りを起こして心をさえぎっている。日の上に雲はなく、麗しい天があまねく照らす。目の中に翳はなく、空に花はない。道流よ、おまえが法にかなっていたいなら、ただ疑いを起こすな。広げれば法界にゆきわたり、収めれば糸すじ一本も立たない。ありありとただ一つ明らかで、いまだかつて欠けたことがない。目に見えず、耳に聞こえず、これを何と呼ぶか。古人は言った、「一つの物に似ていると言っても、当たらない」と。おまえはただ自分で見よ、ほかに何があるのか。説けばきりがない。各自、力を尽くせ。それでは。

解説

示衆の締めくくりにあたる一段で、口調がそれまでと違う。棒も喝もなく、静かに畳んでいく。まず自分の流儀を否定形で示す。「諍論して激揚を求め、鏗鏘として以て外道を摧くにあらず」——議論で勢いを競い、他派を打ち負かすことではない。あれだけ激しい人が、論争は自分の道ではないと言う。喩えが印象的だ。「大海の死屍を停めざるが如し」。海は死骸を留めない。ところが人は、それを背負ったまま走り回る。過ぎたものを抱えていること自体が障りだと言っている。そして光の比喩が四つ続く。日の上に雲なく、天は照らし、目に翳なく、空に花はない。何も加えなくてもすでに明るい、という状態の描写である。締めが良い。何と呼ぶかと問い、古人の「一物に似たりと説くも則ち中らず」を引いて、名づけを封じ、「爾但だ自家に看よ」——自分で見よ、と返す。そして「各自著力せよ。珍重」。教えを配らずに散会する。

この章句が説くこと

至理之道大海不停死屍説似一物則不中各自著力

この一句を、あなたの毎日に。

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