臨済録 / 示衆
道流!今時且要識取四種無相境,免被境擺撲。」問:「如何是四種無相境?」師云:
書き下し
道流、今時且く四種の無相の境を識取して、境に擺撲せらるることを免れんことを要す。」問う、「如何なるか是れ四種の無相の境。」師云く、
現代語訳
(前の説法の続きである。)修行者たちよ、今はともかく四種の姿なき境を見て取って、境に振り回され投げ倒されることを免れなければならない。」僧が問うた。「四種の姿なき境とは何か。」師は言った。
解説
説法の一区切りと、それを受けた問いである。臨済は、境、すなわち心が向かう対象に振り回され投げ倒されないためには、四種の無相の境を知る必要があると言う。この後に続く答えでは、疑い・愛着・怒り・喜びの一念が、それぞれ地・水・火・風の四大となって自分を縛ると説かれ、それらに姿がないと見抜けば、境に使われるのではなく境を使う者になれると示される。境に振り回されないとは、外の出来事を消すことではなく、それに反応する自分の心の動きを見届けることである。仕事でも、状況に翻弄されるか、状況を使いこなすかの違いは、この一歩手前の見届けにかかっている。
関連する章句
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『臨済録』示衆爾が一念心疑へば、地の來るに礙へらる。爾が一念心愛せば、水の來るに溺る。爾が一念心嗔れば、火の來るに燒かる。爾が一念心喜べば、風の來るに飄はさる。若し能く是くの如く辨得せば、境に轉ぜられず、處處に境を用ゐ、東に涌いて西に沒し、南に涌いて北に沒し、中に涌いて邊に沒し、邊に涌いて中に沒し、水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如し。緣何ぞ此くの如き。四大は夢の如く幻の如しと達するが故なり。道流、爾が秖今法を聽く者は、是れ爾が四大の能く用ゐるにあらず。爾が四大若し能く是くの如く見得せば、便ち乃ち去住自由なり。山僧が見處に約せば、嫌ふ底の法勿し。爾若し聖を愛せば、聖とは聖の名なり。有る一般の學人、五臺山裏に向かって文殊を求むるは、早く錯り了れり。五臺山に文殊無し。爾文殊を識らんと欲するや。秖だ爾が目前の用處、始終異ならず、處處に疑はざる、此箇是れ活文殊なり。爾が一念心の差別無き光、處處に總て是れ真の普賢なり。儞が一念心の自ら能く縛を解く、隨處に解脫す、此れは是れ觀音なり。
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『臨済録』示衆有る時は人を奪って境を奪はず、有る時は境を奪って人を奪はず、有る時は人境俱に奪ひ、有る時は人境俱に奪はず」と。時に僧有り問ふ、「如何なるか是れ人を奪って境を奪はざる」と。師云く、「煦日發生して地に錦を鋪き、瓔孩髮を垂れて白きこと絲の如し」と。僧云く、「如何なるか是れ境を奪って人を奪はざる」と。師云く、「王令已に行はれて天下遍く、將軍塞外に烟塵を絕つ」と。僧云く、「如何なるか是れ人境兩つながら俱に奪ふ」と。師云く、「并汾信を絕ち、獨り一方に處る」と。僧云く、「如何なるか是れ人境俱に奪はざる」と。師云く、「王寶殿に登り、野老謳歌す」と。師乃ち云く、「今時佛法を學ぶ者は、且く真正の見解を求むるを要す。若し真正の見解を得ば、生死に染まらず、去住自由にして、殊勝を求めずして殊勝自ら至る。道流、秖だ自古の先德の如きは、皆な人を出だす底の路有り。山僧が人に指示する處の如きは、秖だ爾が人の惑を受けざらんことを要す。用ゐんと要さば便ち用ゐよ、更に遲疑する莫かれ。如今の學者得ざるは、病甚の處にか在る。病は自ら信ぜざる處に在り。
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『臨済録』示衆道流、大丈夫漢、更に箇の什麼をか疑はん。目前の用處、更に是れ阿誰か把得して便ち用ゐん。名字に著する莫かれ、號して玄旨と為す。與麼に見得すれば嫌ふ底の法勿し。古人云く、『心は萬境に隨って轉ず、轉ずる處實に能く幽なり。流れに隨って性を認得すれば、喜び無く亦た憂ひ無し』と。道流、禪宗の見解の如きは死活循然たり。參學の人、大いに須らく子細なるべし。主客相見の如きは便ち言論の往來有り。或いは物に應じて形を現じ、或いは全體に作用し、或いは機權を把って喜怒し、或いは半身を現じ、或いは師子に乘り、或いは象王に乘る。如し真正の學人有れば便ち喝して、先づ一箇の膠盆子を拈出す。善知識是れ境なるを辨ぜずして、便ち他の境上に上りて模を作し樣を作す。學人便ち喝すれば、前人肯へて放たず。此れは是れ膏肓の病、醫するに堪へず、喚んで客、主を看ると作す。或いは是れ善知識、物を拈出せずして、學人の問處に隨って即ち奪ふ。學人奪はれて死に抵るまで放たず、此れは是れ主、客を看るなり。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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『臨済録』示衆諸方の学人来たるが如きは、山僧此の間に三種の根器を作して断ず。如し中下の根器来たらば、我れ便ち其の境を奪って、其の法を除かず。或いは中上の根器来たらば、我れ便ち境法倶に奪う。如し上上の根器来たらば、我れ便ち境法人倶に奪わず。如し出格の見解の人有って来たらば、山僧此の間には便ち全体作用して根器を歴ず。「大徳、這裏に到っては、学人の力を著くる処、風を通ぜず、石火電光も即ち過ぎ了れり。学人若し眼定動せば、即ち交渉没し。心を擬すれば即ち差い、念を動ずれば即ち乖く。人の解する者有らば、目前を離れず。大徳、爾鉢嚢屎担子を担って、傍家に走って仏を求め法を求む。即今与麼に馳求する底、爾還って渠を識るや。活撥撥地にして、秖だ是れ根株勿し。擁すれども聚まらず、撥すれども散ぜず。求著すれば即ち転た遠く、求めざれば還って目前に在り。霊音耳に属す。若し人信ぜずんば、徒らに百年を労せん。
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『臨済録』示衆道流、真佛は形無く、真法は相無し。爾秖麼に幻化の上頭に模を作し樣を作す。設ひ求め得る者も、皆な是れ野狐精魅にして、並びに是れ真佛にあらず、是れ外道の見解なり。夫れ真の學道人の如きは、並びに佛を取らず、菩薩・羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず、逈かに獨脫無くして物と拘はらず。乾坤倒覆するも我れ更に疑はず。十方の諸佛現前するも一念の心喜ぶこと無く、三塗地獄頓かに現ずるも一念の心怖るること無し。緣何ぞ此くの如き。我れ諸法の空相を見るに、變ずれば即ち有り、變ぜざれば即ち無し。三界は唯だ心、萬法は唯だ識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉するを勞せん。唯だ道流の目前現今に法を聽く底の人有るのみ。火に入るも燒けず、水に入るも溺れず、三塗地獄に入るも園觀に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入るも報を受けず。緣何ぞ此くの如き。嫌ふ底の法無ければなり。爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。煩惱は心に由るが故に有り。無心なれば煩惱何ぞ拘へん。分別して相を取るを勞せずんば、自然に道を得ること須臾ならん。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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