臨済録 / 示衆
如諸方學人來,山僧此間作三種根器斷:如中下根器來,我便奪其境,而不除其法;或中上根器來,我便境法俱奪;如上上根器來,我便境法人俱不奪;如有出格見解人來,山僧此間便全體作用不歷根器。「大德!到這裏學人著力處不通風,石火電光即過了也。學人若眼定動,即沒交涉,擬心即差,動念即乖。有人解者,不離目前。大德!爾檐鉢囊屎檐子,傍家走求佛求法,即今與麼馳求底,爾還識渠麼?活撥撥地,秖是勿根株,擁不聚、撥不散,求著即轉遠、不求還在目前。靈音屬耳,若人不信,徒勞百年。
新字:如諸方学人来,山僧此間作三種根器断:如中下根器来,我便奪其境,而不除其法;或中上根器来,我便境法倶奪;如上上根器来,我便境法人倶不奪;如有出格見解人来,山僧此間便全体作用不歴根器。「大徳!到這裏学人著力処不通風,石火電光即過了也。学人若眼定動,即没交渉,擬心即差,動念即乖。有人解者,不離目前。大徳!爾檐鉢嚢屎檐子,傍家走求仏求法,即今与麼馳求底,爾還識渠麼?活撥撥地,秖是勿根株,擁不聚、撥不散,求著即転遠、不求還在目前。霊音属耳,若人不信,徒労百年。
書き下し
諸方の学人来たるが如きは、山僧此の間に三種の根器を作して断ず。如し中下の根器来たらば、我れ便ち其の境を奪って、其の法を除かず。或いは中上の根器来たらば、我れ便ち境法倶に奪う。如し上上の根器来たらば、我れ便ち境法人倶に奪わず。如し出格の見解の人有って来たらば、山僧此の間には便ち全体作用して根器を歴ず。「大徳、這裏に到っては、学人の力を著くる処、風を通ぜず、石火電光も即ち過ぎ了れり。学人若し眼定動せば、即ち交渉没し。心を擬すれば即ち差い、念を動ずれば即ち乖く。人の解する者有らば、目前を離れず。大徳、爾鉢嚢屎担子を担って、傍家に走って仏を求め法を求む。即今与麼に馳求する底、爾還って渠を識るや。活撥撥地にして、秖だ是れ根株勿し。擁すれども聚まらず、撥すれども散ぜず。求著すれば即ち転た遠く、求めざれば還って目前に在り。霊音耳に属す。若し人信ぜずんば、徒らに百年を労せん。
現代語訳
諸方の修行者がやって来ると、わたしはここで三種の素質に分けて見定める。中程度より下の素質の者が来たら、わたしはその境(対象)を奪って、その法(見方)は取り除かない。中程度より上の素質の者が来たら、境も法もともに奪う。最上の素質の者が来たら、境も法も人もどれも奪わない。枠を越えた見解の人が来たなら、わたしはここで全身全霊ではたらきかけ、素質の区別などにかかわらない。「諸君、ここに至っては、修行者が力を入れる余地は風も通らないほどで、火打ち石の火花や稲妻のように一瞬で過ぎ去ってしまう。修行者がまばたき一つでもすれば、もう関わりがない。心で推し量ろうとすれば外れ、思いを動かせば背く。分かる人ならば、それは目の前を離れていない。諸君、お前たちは鉢袋と糞袋(肉体)を担いで、よそへ走り回って仏を求め法を求めている。今そうして追い求めているもの、お前たちはそれが何者か分かっているのか。生き生きとしていて、しかも根も株もない。かき集めても集まらず、払っても散らない。求めればますます遠ざかり、求めなければかえって目の前にある。霊妙な声が耳に届いている。それを信じなければ、百年をむなしく費やすことになる。
解説
関連する章句
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『臨済録』示衆有る時は人を奪って境を奪はず、有る時は境を奪って人を奪はず、有る時は人境俱に奪ひ、有る時は人境俱に奪はず」と。時に僧有り問ふ、「如何なるか是れ人を奪って境を奪はざる」と。師云く、「煦日發生して地に錦を鋪き、瓔孩髮を垂れて白きこと絲の如し」と。僧云く、「如何なるか是れ境を奪って人を奪はざる」と。師云く、「王令已に行はれて天下遍く、將軍塞外に烟塵を絕つ」と。僧云く、「如何なるか是れ人境兩つながら俱に奪ふ」と。師云く、「并汾信を絕ち、獨り一方に處る」と。僧云く、「如何なるか是れ人境俱に奪はざる」と。師云く、「王寶殿に登り、野老謳歌す」と。師乃ち云く、「今時佛法を學ぶ者は、且く真正の見解を求むるを要す。若し真正の見解を得ば、生死に染まらず、去住自由にして、殊勝を求めずして殊勝自ら至る。道流、秖だ自古の先德の如きは、皆な人を出だす底の路有り。山僧が人に指示する處の如きは、秖だ爾が人の惑を受けざらんことを要す。用ゐんと要さば便ち用ゐよ、更に遲疑する莫かれ。如今の學者得ざるは、病甚の處にか在る。病は自ら信ぜざる處に在り。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆道流、大丈夫漢、更に箇の什麼をか疑はん。目前の用處、更に是れ阿誰か把得して便ち用ゐん。名字に著する莫かれ、號して玄旨と為す。與麼に見得すれば嫌ふ底の法勿し。古人云く、『心は萬境に隨って轉ず、轉ずる處實に能く幽なり。流れに隨って性を認得すれば、喜び無く亦た憂ひ無し』と。道流、禪宗の見解の如きは死活循然たり。參學の人、大いに須らく子細なるべし。主客相見の如きは便ち言論の往來有り。或いは物に應じて形を現じ、或いは全體に作用し、或いは機權を把って喜怒し、或いは半身を現じ、或いは師子に乘り、或いは象王に乘る。如し真正の學人有れば便ち喝して、先づ一箇の膠盆子を拈出す。善知識是れ境なるを辨ぜずして、便ち他の境上に上りて模を作し樣を作す。學人便ち喝すれば、前人肯へて放たず。此れは是れ膏肓の病、醫するに堪へず、喚んで客、主を看ると作す。或いは是れ善知識、物を拈出せずして、學人の問處に隨って即ち奪ふ。學人奪はれて死に抵るまで放たず、此れは是れ主、客を看るなり。
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『臨済録』示衆学人便ち礼拝す。此れを喚んで主、主を看ると作す。或いは学人有り、枷を披り鎖を帯びて善知識の前に出づ。善知識更に与に一重の枷鎖を安ず。学人歓喜す。彼此弁ぜず、呼んで客、客を看ると為す。「大徳、山僧是の如く挙する所は、皆な是れ魔を弁じ異を揀んで、其の邪正を知る。道流、寔情は大いに難し。仏法は幽玄なり、解得すること可可地なり。山僧竟日他の与に説破するも、学者総に意に在らず。千遍万遍脚底に踏過して、黒没焌地、一箇の形段無くして歴歴孤明なり。学人信不及にして、便ち名句上に向かって解を生じ、年半百に登るも、秖管に傍家に死屍を負うて行き、担子を担却して天下に走る。草鞋銭を索めらるる日有らん。「大徳、山僧は外に向かって法無しと説く。学人会せず、便即ち裏に向かって解を作し、便即ち壁に倚って坐し、舌を上齶に拄えて湛然として動ぜず、此れを取って是れ祖門の仏法と為す。大いに錯る。是れ爾若し不動清浄の境を取って是と為さば、爾は即ち他の無明を認めて郎主と為す。古人云く、『湛湛たる黒暗の深坑、寔に怖畏すべし。』此れ之れ是れなり。爾若し他の動く者を認めて是と為さば、一切の草木皆な動くことを解す、応に是れ道なるべし。所以に動く者は是れ風大、動かざる者は是れ地大、動と不動と倶に自性無し。爾若し動処に向かって他を捉うれば、他は不動処に向かって立つ。爾若し不動処に向かって他を捉うれば、他は動処に向かって立つ。譬えば潜泉の魚の波を鼓して自ら躍るが如し。大徳、動と不動とは是れ二種の境なり。還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う。
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『臨済録』示衆「但だ来たり求むる者有らば、我れ即便ち出でて渠を看る。渠我れを識らず。我れ便ち数般の衣を著く。学人解を生じて一向に我が言句に入る。『苦しい哉、瞎禿子無眼の人、我が著くる底の衣を把って青黄赤白と認む。』我れ脱却して清浄の境中に入れば、学人一見して便ち忻欲を生ず。我れ又た脱却すれば、学人失心して、忙然として狂走して言う、『我れに衣無し。』我れ即ち渠に向かって道う、『爾我が衣を著くる底の人を識るや否や。』忽爾として回頭すれば、我れを認め了れり。『大徳、爾衣を認むること莫かれ。衣は動くこと能わず、人能く衣を著く。箇の清浄衣有り、箇の無生衣・菩提衣・涅槃衣有り、祖衣有り、仏衣有り。大徳、但だ有らゆる声名文句は、皆な悉く是れ衣変なり。臍輪気海の中より鼓激し、牙歯敲磕して其の句義を成す。明らかに知んぬ、是れ幻化なることを。大徳、外に声語の業を発し、内に心所の法を表す。思を以て念有り、皆な悉く是れ衣なり。爾秖麼に他の著くる底の衣を認めて寔解と為さば、縦い塵劫を経るも秖だ是れ衣通なり。三界に循還し、生死に輪回す。如かず無事にして、相逢うて相識らず、共に語って名を知らざらんには。今時の学人の得ざるは、蓋し名字を認めて解と為すが為なり。大策子上に死老漢の語を抄し、三重五重に複子に裹んで人をして見せしめず、是れ玄旨なりと道うて、以て保重と為す。大いに錯る。瞎屢生、爾枯骨上に向かって什麼の汁をか覓む。一般の好悪を識らざるもの有り、教中に向かって意度を取り商量して句義を成す。屎塊子を把って口裏に向かって含み了って、吐き過ごして別人に与うるが如し。猶お俗人の口令を打伝するが如くに相似たり。一生虚しく過ごす。我れ出家すと道うも、他に仏法を問著せられて、便即ち口を杜じて詞無く、眼は漆突に似、口は楄担の如し。此の如きの類は、弥勒の出世に逢うも、他方世界に移置せられ、地獄に寄せて苦を受けん。大徳、爾波波地に諸方に往いて什麼物をか覓む。爾が脚板を踏んで闊からしむ。仏の求むべき無く、道の成ずべき無く、法の得べき無し。外に有相の仏を求むるは、汝と相似ず。汝が本心を識らんと欲せば、合に非ず亦た離に非ず。』
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