臨済録 / 示衆
道流!大丈夫漢更疑箇什麼?目前用處更是阿誰把得便用,莫著名字,號為玄旨,與麼見得勿嫌底法。古人云:『心隨萬境轉,轉處實能幽,隨流認得性,無喜亦無憂。』道流!如禪宗見解死活循然,參學之人大須子細,如主客相見便有言論往來,或應物現形、或全體作用、或把機權喜怒、或現半身、或乘師子、或乘象王。如有真正學人便喝,先拈出一箇膠盆子。善知識不辨是境,便上他境上作模作樣。學人便喝,前人不肯放。此是膏肓之病不堪醫,喚作客看主。或是善知識不拈出物,隨學人問處即奪。學人被奪抵死不放,此是主看客。或有學人應一箇清淨境出善知識前,善知識辨得是境,把得拋向坑裏。學人言:『大好善知識。』即云:『咄哉,不識好惡。
新字:道流!大丈夫漢更疑箇什麼?目前用処更是阿誰把得便用,莫著名字,号為玄旨,与麼見得勿嫌底法。古人云:『心随万境転,転処実能幽,随流認得性,無喜亦無憂。』道流!如禅宗見解死活循然,参学之人大須子細,如主客相見便有言論往来,或応物現形、或全体作用、或把機権喜怒、或現半身、或乗師子、或乗象王。如有真正学人便喝,先拈出一箇膠盆子。善知識不弁是境,便上他境上作模作様。学人便喝,前人不肯放。此是膏肓之病不堪医,喚作客看主。或是善知識不拈出物,随学人問処即奪。学人被奪抵死不放,此是主看客。或有学人応一箇清浄境出善知識前,善知識弁得是境,把得抛向坑裏。学人言:『大好善知識。』即云:『咄哉,不識好悪。
書き下し
道流、大丈夫漢、更に箇の什麼をか疑はん。目前の用處、更に是れ阿誰か把得して便ち用ゐん。名字に著する莫かれ、號して玄旨と為す。與麼に見得すれば嫌ふ底の法勿し。古人云く、『心は萬境に隨って轉ず、轉ずる處實に能く幽なり。流れに隨って性を認得すれば、喜び無く亦た憂ひ無し』と。道流、禪宗の見解の如きは死活循然たり。參學の人、大いに須らく子細なるべし。主客相見の如きは便ち言論の往來有り。或いは物に應じて形を現じ、或いは全體に作用し、或いは機權を把って喜怒し、或いは半身を現じ、或いは師子に乘り、或いは象王に乘る。如し真正の學人有れば便ち喝して、先づ一箇の膠盆子を拈出す。善知識是れ境なるを辨ぜずして、便ち他の境上に上りて模を作し樣を作す。學人便ち喝すれば、前人肯へて放たず。此れは是れ膏肓の病、醫するに堪へず、喚んで客、主を看ると作す。或いは是れ善知識、物を拈出せずして、學人の問處に隨って即ち奪ふ。學人奪はれて死に抵るまで放たず、此れは是れ主、客を看るなり。
現代語訳
道流よ、大丈夫たる者、いったい何を疑うのか。目の前のはたらき、それをつかんでそのまま用いているのは誰なのか。名前にとらわれるな、これを玄旨と呼ぶ。このように見えれば、嫌うべき法はない。古人は言った、「心は万の境にしたがって転じる。転じるところが実に奥深い。流れにしたがって本性を知れば、喜びもなくまた憂いもない」と。道流よ、禅宗の見解というものは、死ぬも生きるも自在である。学ぶ人はよくよく細かでなければならない。主と客が相まみえれば言葉のやりとりが起こる。あるいは物に応じて形を現し、あるいは全体をはたらかせ、あるいは方便を用いて喜んだり怒ったり、あるいは半身を現し、あるいは獅子に乗り、あるいは象王に乗る。もし真に本物の学人がいれば、いきなり喝して、まず膠の盆を一つ差し出す。師のほうがそれが仕掛けだと見抜けず、その仕掛けに乗って型を作り模様を作る。学人がまた喝すると、師は手放そうとしない。これは不治の病であって治せない。これを客が主を見ると呼ぶ。あるいは師が何も差し出さず、学人の問うところにしたがってすぐに奪う。学人は奪われても死ぬまで手放さない。これを主が客を見るという。
解説
この章句が説くこと
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『臨済録』示衆学人便ち礼拝す。此れを喚んで主、主を看ると作す。或いは学人有り、枷を披り鎖を帯びて善知識の前に出づ。善知識更に与に一重の枷鎖を安ず。学人歓喜す。彼此弁ぜず、呼んで客、客を看ると為す。「大徳、山僧是の如く挙する所は、皆な是れ魔を弁じ異を揀んで、其の邪正を知る。道流、寔情は大いに難し。仏法は幽玄なり、解得すること可可地なり。山僧竟日他の与に説破するも、学者総に意に在らず。千遍万遍脚底に踏過して、黒没焌地、一箇の形段無くして歴歴孤明なり。学人信不及にして、便ち名句上に向かって解を生じ、年半百に登るも、秖管に傍家に死屍を負うて行き、担子を担却して天下に走る。草鞋銭を索めらるる日有らん。「大徳、山僧は外に向かって法無しと説く。学人会せず、便即ち裏に向かって解を作し、便即ち壁に倚って坐し、舌を上齶に拄えて湛然として動ぜず、此れを取って是れ祖門の仏法と為す。大いに錯る。是れ爾若し不動清浄の境を取って是と為さば、爾は即ち他の無明を認めて郎主と為す。古人云く、『湛湛たる黒暗の深坑、寔に怖畏すべし。』此れ之れ是れなり。爾若し他の動く者を認めて是と為さば、一切の草木皆な動くことを解す、応に是れ道なるべし。所以に動く者は是れ風大、動かざる者は是れ地大、動と不動と倶に自性無し。爾若し動処に向かって他を捉うれば、他は不動処に向かって立つ。爾若し不動処に向かって他を捉うれば、他は動処に向かって立つ。譬えば潜泉の魚の波を鼓して自ら躍るが如し。大徳、動と不動とは是れ二種の境なり。還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う。
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『臨済録』示衆「道流、諸方に学人有って来たるが如きは、主客相見し了って、便ち一句子の語有り。『前頭の善知識を弁ぜんとして、学人箇の機権の語路を拈出して、善知識の口角頭に向かって攛過し、爾識るや識らずやと看る。爾若し是れ境なることを識得せば、把得して便ち坑子の裏に向かって拋つ。』学人便即ち尋常にして、然る後に便ち善知識の語を索む。前に依って之を奪う。学人云く、『上智なる哉、是れ大善知識。』即ち云く、『爾大いに好悪を識らず。』善知識の如きは、箇の境塊子を把出して、学人の面前に向かって弄す。前人弁得して下下に主と作り、境惑を受けず。善知識便即ち半身を現ず。学人便ち喝す。善知識又た一切差別の語路の中に入って擺撲す。学人云く、『好悪を識らざる老禿奴。』善知識歎じて曰く、『真正の道流。』諸方の善知識の如きは邪正を弁ぜず。学人来たって菩提・涅槃・三身・境智を問えば、瞎老師便ち他の与に解説し、他の学人に罵著せられて、便ち棒を把って他を打って、言う、『礼度無し。』自ら是れ爾善知識の眼無きなり、他を嗔ることを得ず。一般の好悪を識らざる禿奴有り、即ち東を指し西を劃し、晴を好み雨を好み、燈籠露柱を好む。爾看よ、眉毛幾茎か有る。這箇機縁を具す。学人会せず、便即ち心狂す。是の如きの流は総に是れ野狐精魅魍魎なり。他の好学人に嗌嗌として微笑せられ、言う、瞎老禿奴、他の天下の人を惑乱すと。「道流、出家児は且く道を学ばんことを要す。秖だ山僧往日の如きは、曾て毘尼の中に向かって心を留め、亦た曾て経論に於いて尋討す。後に方に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂乃ち一時に拋却し、即ち道を訪い禅に参ず。後に大善知識に遇うて、方乃ち道眼分明にして、始めて天下の老和尚を識得し、其の邪正を知る。是れ娘生下にして便ち会するにあらず、還って是れ体究練磨して一朝に自ら省す。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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『碧巌録』第三十八則只如ば臨済に四賓主の話有り。夫れ参学の人は、大いに須らく子細なるべし。賓主相見えて、語論有りて賓主往来するが如きは、或いは物に応じて形を見はし、全体作用す。或いは機権を把りて喜怒し、或いは半身を現じ、或いは獅子に乗り、或いは象王に乗る。如し真正の学人有らば便ち喝して、先づ一箇の膠盆子を拈出す。善知識是れ境なることを辨ぜず、便ち他の境上に上りて、模を作し様を作す。便ち学人又喝す。前人放下することを肯ぜず。此れは是れ膏肓の病、医治するに堪へず。喚んで賓主を看ると作す。或いは是れ善知識、物を拈出せず、学人の問ふ処に随ひて便ち奪ふ。学人奪はれて、抵死して放たず。此れは是れ主賓を看る。或いは学人有りて、一箇の清浄の境に応じて、善知識の前に出づ。知識是れ境なることを辨得して、他を把りて坑裏に抛向す。学人言ふ、大いに好き善知識と。知識即ち云く、咄哉、好悪を識らずと。学人礼拝す。此れを喚んで主主を看ると作す。或いは学人有りて、枷を披り鎖を帯びて、善知識の前に出づ。知識更に他に一重の枷鎖を安ず。学人歓喜す。彼此辨ぜず。呼んで賓賓を看ると為す。大徳、山僧の挙する所は、皆是れ魔を辨じ異を揀びて、其の邪正を知らしむ。見ずや僧慈明に問ふ、一喝に賓主を分かち、照用一時に行ずる時如何。慈明便ち喝す。又雲居弘覚禅師衆に示して云く、譬へば獅子の象を捉ふるにも亦た其の力を全うし、兎を捉ふるにも亦た其の力を全うするが如しと。時に僧有りて問ふ、未審し什麼の力をか全うす。雲居云く、欺かざるの力と。看よ他の雪竇の頌出することを。梟。
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『臨済録』示衆道流、切に真正の見解を求取して、天下に橫行し、這の一般の精魅に惑亂せらるるを免るるを要す。無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ。爾外に向かひ傍家に求めて脚手を覓めんと擬するは、錯り了れり。秖だ佛を求めんと擬するも、佛は是れ名句なり。爾還た馳求する底を識るや。三世十方の佛祖出で來るも也た秖だ法を求むるが為なり。如今參學の道流も也た秖だ法を求むるが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば依前として五道に輪回す。云何なるか是れ法。法とは是れ心法なり。心法は形無く、十方に通貫し、目前に現に用ゐらる。人信ずること及ばず、便ち乃ち名を認め句を認め、文字の中に向かって意度を求む。佛法とは天地懸殊なり。道流、山僧が説法は、什麼の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、淨に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ爾が真俗凡聖にあらず。能く一切の真俗凡聖に名字を安著し、真俗凡聖は此の人に名字を安著すること得ず。道流、把得すれば便ち用ゐ、更に名字を著けざる、之を號して玄旨と為す。
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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