臨済録 / 示衆
如圓頓菩薩入法界現身,向淨土中厭凡忻聖,如此之流取捨,未忘染淨心在。如禪宗見解,又且不然,直是現今更無時節。山僧說處皆是一期藥病相治,總無實法。若如是見得,是真出家,日消萬兩黃金。道流!莫取次被諸方老師印破面門道,我解禪、解道,辯似懸河,皆是造地獄業。若是真正學道人,不求世間過,切急要求真正見解。若達真正見,解圓明方始了畢。」問:「如何是真正見解?」師云:「爾但一切入凡、入聖,入染、入淨,入諸佛國土、入彌勒樓閣、入毘盧遮那法界,處處皆現國土成、住、壞、空,佛出于世,轉大法輪,却入涅槃,不見有去來相貌,求其生死了不可得,便入無生法界,處處游履國土,入華藏世界。盡見諸法空相,皆無實法,
新字:如円頓菩薩入法界現身,向浄土中厭凡忻聖,如此之流取捨,未忘染浄心在。如禅宗見解,又且不然,直是現今更無時節。山僧説処皆是一期薬病相治,総無実法。若如是見得,是真出家,日消万両黄金。道流!莫取次被諸方老師印破面門道,我解禅、解道,弁似懸河,皆是造地獄業。若是真正学道人,不求世間過,切急要求真正見解。若達真正見,解円明方始了畢。」問:「如何是真正見解?」師云:「爾但一切入凡、入聖,入染、入浄,入諸仏国土、入弥勒楼閣、入毘盧遮那法界,処処皆現国土成、住、壊、空,仏出于世,転大法輪,却入涅槃,不見有去来相貌,求其生死了不可得,便入無生法界,処処游履国土,入華蔵世界。尽見諸法空相,皆無実法,
書き下し
円頓の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向かって凡を厭い聖を忻う。此の如きの流は取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。禅宗の見解の如きは、又た且つ然らず。直に是れ現今にして、更に時節無し。山僧が説く処は、皆な是れ一期の薬病相治にして、総に実法無し。若し是の如く見得せば、是れ真の出家、日に万両の黄金を消す。道流、取次に諸方の老師に面門を印破せられて、我れ禅を解し道を解すと道うこと莫かれ。弁は懸河に似たるも、皆な是れ地獄の業を造る。若し是れ真正の学道人ならば、世間の過を求めず、切急に真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解に達して円明ならば、方に始めて了畢す。」問う、「如何なるか是れ真正の見解。」師云く、「爾但だ一切、凡に入り聖に入り、染に入り浄に入り、諸仏の国土に入り、弥勒の楼閣に入り、毘盧遮那の法界に入って、処処に皆な国土の成住壊空を現ず。仏、世に出でて大法輪を転じ、却って涅槃に入るも、去来の相貌有るを見ず。其の生死を求むるに了に得べからず。便ち無生の法界に入って、処処に国土に游履し、華蔵世界に入って、尽く諸法の空相を見る。皆な実法無し。
現代語訳
(前の説法の続きである。)円頓の菩薩(天台宗でいう完全で即時の教えを修める菩薩)のような者は、法界に入って身を現し、浄土の中で凡夫の世界を嫌い聖なるものを喜び求める。こういう連中は、取ることと捨てることをまだ忘れておらず、汚れと清らかさを分ける心が残っている。禅宗の見方はそうではない。まさに今この時であって、ほかの時節などない。わたしが説くことは、すべてその時限りの、病に応じて薬を与えるものであって、固定した実体のある教えなど一つもない。このように見て取れれば、それこそ真の出家であり、一日に万両の黄金を費やしてもよいだけの値打ちがある。修行者たちよ、軽々しく諸方の老師に顔に印を押されて、自分は禅が分かった道が分かったなどと言ってはならない。弁舌が滝のように流れても、それはみな地獄の業をつくっているにすぎない。真に道を学ぶ者なら、世間の人の過ちを探したりせず、何よりも急いで真正の見解を求めることだ。真正の見解に達して、それが円かに明らかになれば、そこで初めて事は終わる。」僧が問うた。「真正の見解とは何か。」師は言った。「お前たちがあらゆるところ、凡夫の世界にも聖人の世界にも入り、汚れた世界にも清らかな世界にも入り、諸仏の国土にも弥勒(みろく、未来に現れるとされる仏)の楼閣にも毘盧遮那(びるしゃな、宇宙そのものとしての仏)の法界にも入り、どこでも国土が成り立ち、とどまり、壊れ、空になるさまを現す。仏が世に現れて大いなる法輪を転じ、やがて涅槃に入っても、そこに去ったり来たりする姿を見ない。その生死を求めても、まったく見つからない。そこで生じることのない法界に入り、至るところの国土を遊び歩き、華蔵世界(毘盧遮那仏の荘厳な世界)に入って、あらゆるものの空である姿をことごとく見る。どれにも実体のある教えなどない。
解説
関連する章句
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆道流、真佛は形無く、真法は相無し。爾秖麼に幻化の上頭に模を作し樣を作す。設ひ求め得る者も、皆な是れ野狐精魅にして、並びに是れ真佛にあらず、是れ外道の見解なり。夫れ真の學道人の如きは、並びに佛を取らず、菩薩・羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず、逈かに獨脫無くして物と拘はらず。乾坤倒覆するも我れ更に疑はず。十方の諸佛現前するも一念の心喜ぶこと無く、三塗地獄頓かに現ずるも一念の心怖るること無し。緣何ぞ此くの如き。我れ諸法の空相を見るに、變ずれば即ち有り、變ぜざれば即ち無し。三界は唯だ心、萬法は唯だ識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉するを勞せん。唯だ道流の目前現今に法を聽く底の人有るのみ。火に入るも燒けず、水に入るも溺れず、三塗地獄に入るも園觀に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入るも報を受けず。緣何ぞ此くの如き。嫌ふ底の法無ければなり。爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。煩惱は心に由るが故に有り。無心なれば煩惱何ぞ拘へん。分別して相を取るを勞せずんば、自然に道を得ること須臾ならん。
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『臨済録』示衆道流、山僧が説く處を取る莫かれ。何が故ぞ。説は憑據無ければなり。一期の間、虛空に圖畫す。彩畫の像等の喩の如し。道流、佛を將って究竟と為す莫かれ。我が見るには猶ほ廁孔の如し。菩薩・羅漢は盡く是れ枷鎖、人を縛る底の物なり。所以に文殊は劍を仗って瞿曇を殺し、鴦掘は刀を持って釋氏を害す。道流、佛の得べき無し。乃至三乘・五性・圓頓の教迹も皆な是れ一期の藥病相治にして、並びに實法無し。設ひ有るも、皆な是れ相似、表顯、路布、文字の差排にして、且く是くの如く説くのみ。
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『臨済録』示衆道流、一剎那の間に便ち華藏世界に入り、毘盧遮那の國土に入り、解脫の國土に入り、神通の國土に入り、清淨の國土に入り、法界に入り、穢に入り淨に入り、凡に入り聖に入り、餓鬼畜生に入る。處處に討覓し尋ぬるも皆な、生有り死有るを見ず、唯だ空名有るのみ。幻化空花、把捉するを勞せず。得失是非、一時に放却せよ。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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『臨済録』示衆夫れ至理の道の如きは、諍論して激揚を求め、鏗鏘として以て外道を摧くにあらず。佛祖相承に至っては更に別意無し。設ひ言教有るも、化儀の三乘・五性・人天因果に落在す。圓頓の教の如きは、又た且く然らず。童子善財も皆な過を求めず。大德、錯りて心を用ゐる莫かれ。大海の死屍を停めざるが如し。秖麼に擔却して天下を走らんと擬し、自ら見障を起こして以て心を礙ふ。日上に雲無く、麗天普く照らす。眼中に翳無く、空裏に花無し。道流、爾如法なるを得んと欲せば、但だ疑を生ずる莫かれ。展ぶれば則ち法界に彌綸し、收むれば則ち絲髮も立たず。歷歷孤明にして未だ嘗て欠少せず。眼に見えず、耳に聞こえず、喚んで什麼物と作す。古人云く、『一物に似たりと説くも則ち中らず』と。爾但だ自家に看よ、更に什麼か有らん。説くも亦た盡くる無し。各自著力せよ。珍重。
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