臨済録 / 示衆
「道流!一剎那間便入華藏世界、入毘盧遮那國土、入解脫國土、入神通國土、入清淨國土、入法界、入穢入淨、入凡入聖、入餓鬼畜生,處處討覓尋皆,不見有生、有死,唯有空名。幻化空花不勞把捉,得失是非一時放却。
新字:「道流!一刹那間便入華蔵世界、入毘盧遮那国土、入解脱国土、入神通国土、入清浄国土、入法界、入穢入浄、入凡入聖、入餓鬼畜生,処処討覓尋皆,不見有生、有死,唯有空名。幻化空花不労把捉,得失是非一時放却。
書き下し
道流、一剎那の間に便ち華藏世界に入り、毘盧遮那の國土に入り、解脫の國土に入り、神通の國土に入り、清淨の國土に入り、法界に入り、穢に入り淨に入り、凡に入り聖に入り、餓鬼畜生に入る。處處に討覓し尋ぬるも皆な、生有り死有るを見ず、唯だ空名有るのみ。幻化空花、把捉するを勞せず。得失是非、一時に放却せよ。
現代語訳
道流よ、一刹那のうちに、そのまま華蔵世界に入り、毘盧遮那の国土に入り、解脱の国土に入り、神通の国土に入り、清浄の国土に入り、法界に入り、穢れに入り浄らかに入り、凡に入り聖に入り、餓鬼や畜生に入る。どこを探し尋ねても、生があり死があるとは見えず、ただ空しい名前があるだけだ。幻の花をつかもうと骨を折るな。得失も是非も、いっぺんに放り捨てよ。
解説
壮麗な国土の名が次々に並ぶ。華蔵世界、毘盧遮那の国土、解脱、神通、清浄——経典が説く最上の世界である。ところが列は途中で向きを変える。法界に入り、穢れに入り、浄らかに入り、凡に入り、聖に入り、そして餓鬼畜生に入る。最上のものと最下のものが、同じ勢いで一つの列に並べられている。しかも全部が「一剎那の間」に起こる。段階も距離もない。そのうえで結論が来る。「處處に討覓し尋ぬるも皆な、生有り死有るを見ず、唯だ空名有るのみ」——どこを探しても、あるのは名前だけだ。壮麗な名前を長々と並べたのは、最後にそれを全部「空名」と呼ぶためだった。締めが実践的である。「得失是非、一時に放却せよ」。一つずつ手放すのではなく、いっぺんに放り捨てろと言う。理屈で順に片づけていく道ではないことが、この放り方に出ている。
この章句が説くこと
一刹那間華蔵世界唯有空名幻化空花得失是非一時放却至誠
関連する章句
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『臨済録』示衆円頓の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向かって凡を厭い聖を忻う。此の如きの流は取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。禅宗の見解の如きは、又た且つ然らず。直に是れ現今にして、更に時節無し。山僧が説く処は、皆な是れ一期の薬病相治にして、総に実法無し。若し是の如く見得せば、是れ真の出家、日に万両の黄金を消す。道流、取次に諸方の老師に面門を印破せられて、我れ禅を解し道を解すと道うこと莫かれ。弁は懸河に似たるも、皆な是れ地獄の業を造る。若し是れ真正の学道人ならば、世間の過を求めず、切急に真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解に達して円明ならば、方に始めて了畢す。」問う、「如何なるか是れ真正の見解。」師云く、「爾但だ一切、凡に入り聖に入り、染に入り浄に入り、諸仏の国土に入り、弥勒の楼閣に入り、毘盧遮那の法界に入って、処処に皆な国土の成住壊空を現ず。仏、世に出でて大法輪を転じ、却って涅槃に入るも、去来の相貌有るを見ず。其の生死を求むるに了に得べからず。便ち無生の法界に入って、処処に国土に游履し、華蔵世界に入って、尽く諸法の空相を見る。皆な実法無し。
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『臨済録』示衆道流、真佛は形無く、真法は相無し。爾秖麼に幻化の上頭に模を作し樣を作す。設ひ求め得る者も、皆な是れ野狐精魅にして、並びに是れ真佛にあらず、是れ外道の見解なり。夫れ真の學道人の如きは、並びに佛を取らず、菩薩・羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず、逈かに獨脫無くして物と拘はらず。乾坤倒覆するも我れ更に疑はず。十方の諸佛現前するも一念の心喜ぶこと無く、三塗地獄頓かに現ずるも一念の心怖るること無し。緣何ぞ此くの如き。我れ諸法の空相を見るに、變ずれば即ち有り、變ぜざれば即ち無し。三界は唯だ心、萬法は唯だ識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉するを勞せん。唯だ道流の目前現今に法を聽く底の人有るのみ。火に入るも燒けず、水に入るも溺れず、三塗地獄に入るも園觀に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入るも報を受けず。緣何ぞ此くの如き。嫌ふ底の法無ければなり。爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。煩惱は心に由るが故に有り。無心なれば煩惱何ぞ拘へん。分別して相を取るを勞せずんば、自然に道を得ること須臾ならん。
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆爾が一念心の疑ふ處、是れ魔なり。爾若し萬法無生、心は幻化の如く、更に一塵・一法も無しと達得せば、處處清淨、是れ佛なり。然れども佛と魔とは是れ染・淨の二境なり。山僧が見處に約せば、佛無く、眾生無く、古無く、今無し。得る者は便ち得て、時節を歷ず。修無く、證無く、得無く、失無く、一切時中更に別法無し。設ひ一法の此に過ぐる者有らば、我れ説かん、夢の如く化の如しと。山僧が説く所は皆な是れなり。道流、即今目前に孤明歷歷地として聽く者、此の人處處に滯らず、十方に通貫し、三界に自在なり。一切の境差別に入るも回換すること能はず、一剎那の間に法界に透入し、佛に逢うては佛を説き、祖に逢うては祖を説き、羅漢に逢うては羅漢を説き、餓鬼に逢うては餓鬼を説く。一切處に向かって國土に游履し眾生を教化するも、未だ嘗て一念を離れず。隨處に清淨、光は十方に透り、萬法一如なり。道流、大丈夫兒、今日方に本來無事なるを知る。秖だ爾が信ずること及ばず、念念に馳求し、頭を捨てて頭を覓め、自ら歇むこと能はざるが為なり。
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『臨済録』示衆如し大器なる者は、直だ人の惑を受けざらんことを要す。隨處に主と作れば、立處皆な真なり。但だ來る者有るも皆な受くるを得ざれ。爾一念疑へば即ち魔心に入る。菩薩の疑ふ時、生死の魔便を得るが如し。但だ能く念を息めて、更に外に求むる莫かれ。物來れば則ち照らせ。爾但だ現今の用底を信ぜよ、一箇の事も無し。爾が一念心、三界を生じ、緣に隨ひ境に被はれて分かれて六塵と為る。儞如今の應用の處、什麼をか欠少せる。一剎那の間に便ち淨に入り穢に入り、彌勒の樓閣に入り、三眼の國土に入り、處處に遊履するも、唯だ空名を見るのみ。
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『臨済録』示衆道流、是れ爾が目前の用底は祖佛と別ならず。秖麼に信ぜずして、便ち外に向かって求む。錯る莫かれ。外に向かって法無く、內も亦た得べからず。爾山僧が口裏の語を取るは、休歇無事に去るに如かず。已に起こる者は續ぐ莫かれ、未だ起こらざる者は放ち起こすを要せず。便ち爾が十年の行脚に勝る。山僧が見處に約せば如許多般無し。秖だ是れ平常に衣を著、飯を喫し、無事に時を過ごすのみ。爾諸方より來る者は皆な是れ有心に佛を求め、法を求め、解脫を求め、三界を出離せんことを求む。癡人よ。爾三界を出でんと要して、什麼の處にか去らん。佛祖は是れ賞繫底の名句なり。爾三界を識らんと欲するや。爾が今法を聽く底の心地を離れず。爾が一念心の貪は是れ欲界、爾が一念心の瞋は是れ色界、爾が一念心の癡は是れ無色界なり。是れ爾が屋裏の家具子なり。三界は自ら『我は是れ三界なり』とは道はず。還た是れ、道流、目前に靈靈地として萬般を照燭し世界を酌度する底の人、三界の為に名を安くるなり。
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