臨済録 / 示衆
問:「如何是佛?魔?」師云:
新字:問:「如何是仏?魔?」師云:
書き下し
問う、「如何なるか是れ仏、(如何なるか是れ)魔。」師云く、
現代語訳
ある僧が問うた。「仏とは何か。魔とは何か。」師は言った。
解説
仏と魔を並べて問う短い問いである。答えはこの後に続くが、問いそのものに修行者の関心の置き所が表れている。仏は目指すべきもの、魔は避けるべきものと、修行者は二つを対立させて考えがちである。臨済は別の箇所で、一念の疑いが魔であり、一念の心が生じないことが仏だと答え、仏も魔も外にいる存在ではなく、自分の心の一瞬のあり方にすぎないと示す。善と悪、成功と失敗を外に固定した実体として捉えるのではなく、自分の心の構えが生み出すものとして見直すことは、仕事での迷いや対立を解きほぐす手がかりにもなる。
関連する章句
-
『臨済録』示衆爾が一念心の疑ふ處、是れ魔なり。爾若し萬法無生、心は幻化の如く、更に一塵・一法も無しと達得せば、處處清淨、是れ佛なり。然れども佛と魔とは是れ染・淨の二境なり。山僧が見處に約せば、佛無く、眾生無く、古無く、今無し。得る者は便ち得て、時節を歷ず。修無く、證無く、得無く、失無く、一切時中更に別法無し。設ひ一法の此に過ぐる者有らば、我れ説かん、夢の如く化の如しと。山僧が説く所は皆な是れなり。道流、即今目前に孤明歷歷地として聽く者、此の人處處に滯らず、十方に通貫し、三界に自在なり。一切の境差別に入るも回換すること能はず、一剎那の間に法界に透入し、佛に逢うては佛を説き、祖に逢うては祖を説き、羅漢に逢うては羅漢を説き、餓鬼に逢うては餓鬼を説く。一切處に向かって國土に游履し眾生を教化するも、未だ嘗て一念を離れず。隨處に清淨、光は十方に透り、萬法一如なり。道流、大丈夫兒、今日方に本來無事なるを知る。秖だ爾が信ずること及ばず、念念に馳求し、頭を捨てて頭を覓め、自ら歇むこと能はざるが為なり。
-
『臨済録』示衆爾秖麼に他の閑名を認めて実と為す、大いに錯り了れり。設い有るも、皆な是れ依変の境なり。箇の菩提依・涅槃依・解脱依・三身依・境智依・菩薩依・仏依有り。爾、依変の国土の中に向かって什麼物をか覓む。乃至三乗十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙なり。仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。爾還って是れ娘生なりや否や。爾若し仏を求むれば、即ち仏魔に摂せられ、爾若し祖を求むれば、即ち祖魔に縛せらる。爾若し求むること有らば皆な苦なり。如かず無事ならんには。一般の禿比丘有り、学人に向かって道う、『仏は是れ究竟なり。三大阿僧祇劫に於いて修行果満して、方に始めて成道す。』道流、爾若し仏は是れ究竟なりと道わば、什麼に縁ってか八十年後、拘尸羅城の双林樹間に向かって側臥して死し去る。仏今何くにか在る。明らかに知んぬ、我が生死と別ならざることを。爾言う、三十二相・八十種好は是れ仏なりと。転輪聖王も応に是れ如来なるべし。明らかに知んぬ、是れ幻化なることを。古人云く、『如来の挙身の相は、世間の情に順ぜんが為なり。人の断見を生ぜんことを恐れて、権に且く虚名を立つ。仮に三十二と言い、八十も也た空声なり。有身は覚体に非ず、無相乃ち真形なり。』
-
『臨済録』示衆何を以てか此の如くなる。秖だ我が見処別なるが為に、外、凡聖を取らず、内、根本に住せず、見徹して更に疑謬せず。」師、衆に示して云く、
-
『臨済録』示衆爾が一念心、秖だ空拳指上に向かって実解を生じ、根境法中に虚しく揑怪し、自ら軽んじて退屈して言う、『我れは是れ凡夫、他は是れ聖人。』禿屢生、甚の死急か有る。他の師子の皮を披て、却って野干の鳴を作す。大丈夫漢、丈夫の気息を作さず、自家屋裏の物を肯えて信ぜず、秖麼に外に向かって覓め、他の古人の閑名句に上り、陰に倚り陽に博し、特達すること能わず。境に逢うては便ち縁じ、塵に逢うては便ち執し、触処に惑い起こって、自ら准定無し。
-
『不動智神妙録』石火之機又是れにて御合点可有候、禅宗にて如何是仏と問ひ候はヾ、拳をさしあぐべし、如何か仏法の極意と問はヾ其声未だ絶たざるに一枝の梅花となりとも庭前の柏樹子となりとも云ふべし、云ふ事の吉凶を撰ぶにてはなし止らぬ心を尊ぶなり、止まらぬ心は色にも香にも移らぬ也、此移らぬ心の体を神とも祝ひ、仏とも尊び、禅心とも極意とも申候へども、思案して後に云ひ出し候へば、金言妙句にても住地煩悩にて候、
-
『臨済録』示衆師、晩参に衆に示して云く、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る