不動智神妙録 / 石火之機
又是れにて御合點可有候、禪宗にて如何是佛と問ひ候はヾ、拳をさしあぐべし、如何か佛法の極意と問はヾ其聲未だ絕たざるに一枝の梅花となりとも庭前の柏樹子となりとも云ふべし、云ふ事の吉凶を撰ぶにてはなし止らぬ心を尊ぶなり、止まらぬ心は色にも香にも移らぬ也、此移らぬ心の體を神とも祝ひ、佛とも尊び、禪心とも極意とも申候へども、思案して後に云ひ出し候へば、金言妙句にても住地煩惱にて候、
新字:又是れにて御合点可有候、禅宗にて如何是仏と問ひ候はヾ、拳をさしあぐべし、如何か仏法の極意と問はヾ其声未だ絶たざるに一枝の梅花となりとも庭前の柏樹子となりとも云ふべし、云ふ事の吉凶を撰ぶにてはなし止らぬ心を尊ぶなり、止まらぬ心は色にも香にも移らぬ也、此移らぬ心の体を神とも祝ひ、仏とも尊び、禅心とも極意とも申候へども、思案して後に云ひ出し候へば、金言妙句にても住地煩悩にて候、
書き下し
又是れにて御合点可有候、禅宗にて如何是仏と問ひ候はヾ、拳をさしあぐべし、如何か仏法の極意と問はヾ其声未だ絶たざるに一枝の梅花となりとも庭前の柏樹子となりとも云ふべし、云ふ事の吉凶を撰ぶにてはなし止らぬ心を尊ぶなり、止まらぬ心は色にも香にも移らぬ也、此移らぬ心の体を神とも祝ひ、仏とも尊び、禅心とも極意とも申候へども、思案して後に云ひ出し候へば、金言妙句にても住地煩悩にて候、
現代語訳
また、これでお分かりになるでしょう。禅宗で、仏とは何かと問われたら、拳を差し上げるべきです。仏法の極意とは何かと問われたら、その声がまだ終わらないうちに、一枝の梅の花とでも、庭の前の柏の木とでも言うべきです。言う言葉の良し悪しを選ぶのではありません。とどまらない心を尊ぶのです。とどまらない心は、色にも香りにも移りません。この移らない心の本体を、神とも祝い、仏とも尊び、禅の心とも極意とも言いますが、思案してから言い出したのでは、どんなに優れた言葉や名句であっても、住地煩悩なのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『不動智神妙録』石火之機石火の機と申すもピカリとする稲光のはやきを申し候、例へば右衛門とよびかくるとアツと答ふるを不動智と申し候、右衛門と呼びかけられて何の用にてか有る可きなどゝ思案して、跡に何の用か杯いふ心は住地煩悩にて候、止りて物に動かされ迷はさるゝ心を所住煩悩とて凡夫にて候、又右衛門と呼ばれてオツと答ふるは諸仏智なり、仏と衆生と二つ無く、神と人と二つ無く候、此の心の如くなるを神とも仏とも申し候、
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『不動智神妙録』間不容髪禅の問答には此心ある事にて候、仏法にては此の止りて物に心の残ることを嫌ひ申し候、故に止るを煩悩と申し候、たてきつたる早川へも玉を流す様に乗つてドツト流れて少しも止る心なきを尊ひ候。
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『不動智神妙録』石火之機石火之機と申す事の候、是れも前の心持にて候、石をハタと打つや否や光が出で、打つと其のまゝ出る火なれば間も透間もなき事にて候、是れも心の止るべき間のなき事を申し候、早き事とばかり心得候へば悪敷候、心を物に止め間敷と云ふが詮にて候。
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『不動智神妙録』諸仏不動智諸仏不動智と申す事は、不動とはうごかずといふ文字にて候、智は智恵の智にて候、不動と申し候ても、石か木かのやうに無性なる義理にてはなく候、向ふへも左へも右へも、十方八方へ心は動き度きやうに動きながら、卒度も止まらぬ心を不動智と申し候、
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『不動智神妙録』諸仏不動智然れば不動明王と申すも人の一心の動かぬ所を申し候、亦身を動転せぬことにて候、動転せぬとは物毎に留らぬ事にて候、物一目見て其心を止めぬを不動と申し候、なぜなれば物に心が止り候へば、いろいろの分別か胸に候間胸のうちにいろいろに動き候、止れば止る心は動きても動かぬにて候。
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『不動智神妙録』有心の心 無心の心是れ心に物ある故なり、あるとは思ふ事があるなり、此有る物を去りぬれば、心無心にして唯用の時ばかり働きて其用に当る、此の心にある物を去らんと思ふ心が又心中の有る物になる、思はざれば独り去りて自ら無心となるなり、常にかくすれば何時となく後は独り其位へ行くなり、急にやらんとすれば行かぬものなり、古歌に「思はしと思ふも物を思ふなり思はじとだに思はしやきみ」。