楽訓 / 巻之中・節序
一冬の末つ方にも至りぬれば、今年の日かず殘りすくなく、曆の軸あらはるゝばかりにて、春のとなり旣に近し。年の終るはをしむべく、齡のかさなるはうれはしけれど、新しき年を迎ふるは、珍かにて喜ぶべし。此ころは、世の中の人何くれといそがはしせきあへず、おほくのゝしりて、走りまどふを、ひとり靜かに見る人は、樂むべし。一年は、はかなき夢の心地して過ぎぬれば、あとをかへり見て、せちに名殘をしむべし。老の身は、月日もいとゞたちやすく、何ほどもなき一年なるを、數へ添るもうらめし。されど人の世をふるは、思はずも變多き事なるを、一年の内、わざはひなくて過ぎぬる人は、また樂しからずや。春秋の暮行くだに、名殘をしむべし。
新字:一冬の末つ方にも至りぬれば、今年の日かず残りすくなく、暦の軸あらはるゝばかりにて、春のとなり既に近し。年の終るはをしむべく、齢のかさなるはうれはしけれど、新しき年を迎ふるは、珍かにて喜ぶべし。此ころは、世の中の人何くれといそがはしせきあへず、おほくのゝしりて、走りまどふを、ひとり静かに見る人は、楽むべし。一年は、はかなき夢の心地して過ぎぬれば、あとをかへり見て、せちに名残をしむべし。老の身は、月日もいとゞたちやすく、何ほどもなき一年なるを、数へ添るもうらめし。されど人の世をふるは、思はずも変多き事なるを、一年の内、わざはひなくて過ぎぬる人は、また楽しからずや。春秋の暮行くだに、名残をしむべし。
書き下し
一冬の末つ方にも至りぬれば、今年の日かず残りすくなく、暦の軸あらはるるばかりにて、春のとなり既に近し。年の終るはをしむべく、齢のかさなるはうれはしけれど、新しき年を迎ふるは、珍かにて喜ぶべし。此ころは、世の中の人何くれといそがはしせきあへず、おほくののしりて、走りまどふを、ひとり静かに見る人は、楽むべし。一年は、はかなき夢の心地して過ぎぬれば、あとをかへり見て、せちに名残をしむべし。老の身は、月日もいとどたちやすく、何ほどもなき一年なるを、数へ添るもうらめし。されど人の世をふるは、思はずも変多き事なるを、一年の内、わざはひなくて過ぎぬる人は、また楽しからずや。春秋の暮行くだに、名残をしむべし。
現代語訳
冬の末の頃に至ると、今年の日数も残り少なく、暦の軸が現れるほどになって、春の隣はもう近いのです。年が終わるのは惜しく、年齢が重なるのは憂わしいけれども、新しい年を迎えるのは珍しくて喜ぶべきです。この頃は、世の中の人があれこれと忙しくせわしなく、大いに騒いで走り回るのを、ひとり静かに見ている人は、楽しむべきです。一年は、はかない夢の心地がして過ぎてしまうので、後を振り返って、しきりに名残を惜しむべきです。老いの身は、月日もいっそう早く過ぎ、どれほどもない一年であるのを、数に加えるのも恨めしいものです。けれども人がこの世を生きるのは、思いがけず変事の多いことなのに、一年のうち災いなく過ごせた人は、また楽しいことではないでしょうか。春や秋が暮れていくのでさえ、名残を惜しむべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『楽訓』巻之中・節序一時節は、目に見えて早く立つとしも無けれど、日数かさなりゆけば、一年の過ぐるは程なし。人の一生を経るも、亦年やうやくかさなれば、老死にいたること遠からず。況や人の命は、いたりて危くして、朝夕を知らず、少壮といへど、老大に先だつ人多ければ、頼みなし。久しからざるうき世に、時のうつり行く事早ければ、あたら時日をむなしく過すべからず。
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『楽訓』巻之中・節序一いでや天地の内にみちたる四時のけしきの、きはまりなき楽をいはん。春はまづ一夜のほどにあらたまの年立ちかへる朝の空の光、心づからにや、旧年にかはりて長閑けし。睦月はことたつとて、貧しき家にも、春盤などいふものをまうく。又かはらけとりいで、おほみきすすめて、まづつとめて父母にことぶきし、次にみづから祝し、賓客にももてなすさまなど、つねにかはりて、いとなんいみじう珍かなり。時は今は四の始なれば、そらのけしきやうやう引きかへ、こち風ゆるく吹きて、氷とけ、遠き山辺に霞のうすくたなびける、さまざまに物けざやかに見えて、冬の空に立ちかはれる粧、まづ春の来れるしるしあらはなり。かきねがくれに、冬より残れる雪の、ところどころはだれに見ゆるも、去年の名残をしむべし。
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『楽訓』巻之中・節序まいて一年の終の今日の日の夕暮になりぬるをや。もろこしの人は、守歳といひて、今宵はよもすがら寝ねずとかや。是ふるきを送り新しきを迎ふる心なるべし。送迎につきて、憂喜一かたならず。凡四の時のおしうつる折々につきて、感をおこす人は情ふかし。愁人は是によりて悲み、達士は是によりて楽む。景気は同じけれど、唯見る人から、えんにも凄くもおもほゆるなるべし。
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『楽訓』巻之中・節序一一年の内、天地の道常にめぐり、四時に行はれて、万古よりこのかた止まず。其間霞たつより雪の積れるまで、其けしき、をりをりに異なり。又朝夕のけしき日々に異なれる、変態きはまりなき眺也。天にありて象をなせるは、日月の輝き、風雨のうるほひ、霜雪の清らかなる、雲烟のたなびけるは、天の文なり。地にありて形をなせるは、山河のそばたち流れ、江海の深く広き、鳥獣の鳴き動き、草木の生茂れるは、地の文なり。かくの如く、天地の内、四時の行はれ、百物のなれる有様、目のまへにみちみちて、人の見る事を喜ばしめ、心を感ぜしむる事、大なる楽なるかな。これを楽まん人は眼力を以て境界とし、四時を以て良辰として、其楽何ぞ唯人間三公の貴き万戸侯の富に比べんや。よく心をとめて翫ばん人は、其楽極りなかるべし。
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『楽訓』巻之上・総論一人もしいとまあらば、心のどけく閑にし、日を永くして、いそがはしかるべからず。殊に老ては残れる齢やうやく少なく、時節のすぐる事殊に早ければ、時刻ををしみて、一日を以て十日とし、一月を以て一年とし、一年を以て十年として楽むべし。楽まずしてあだに月日を暮して、後に悔ゆべからず。
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『楽訓』巻之中・節序春の花は、いづれとなく開け出づる色、ことに目おどろかれぬるに、心みじかくて早く散りぬるはうらめし。九十の春光はいとながけれど、何くれと紛はし風雨も亦しげければ、為す事なく、はかなく過ぎて、とどめあへぬ春のかぎりの、けふの日の夕ぐれにさへなりぬ。落花寂々たる黄昏の時は、春の名残いとをしむべし。蘇子瞻が、青雲還一夢といへる、むべなるかな。吾がともがら、うき世のちりも、吾が心のきたなきも、花見るほどは忘られしに、今より後は如何せん。かかる折にふれては、殊更時の早く過ぎて、失ひやすき事、思ひ知られぬ。老いぬれば、今幾年か花もあひ見んと思へば、春の惜しさはいやまさりぬ。いとせめて樽酒余春を楽みて、老の憂を忘るべし。
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