楽訓 / 巻之上・総論
一梓弓はる立ちしより、年の暮れ行くまで、射るが如くにおもほゆれば、時日のはやく過ぎ行くは、止めあへず。むべもとしと名づけ、又ときと言へるならん。されば光陰箭の如く、時節流るゝが如しといへるも、うける事にあらず。老にむかへば、猶更に年月の早く過ぐること、あたかも飛ぶが如し。あとをかへり見れば、五十のよはひを過來しも、さのみ久しからず。たとひ五十の後、又五十のよはひを經て、百年にいたるとも、猶行先の月日いよいよ早くして、ほどなく盡きなんこと、思ひやられ侍る。いくほどなき殘れる齡を、たのしみてこそ過さまほしけれ。うれひ苦みて、むなしく過ぎなんは、いと愚なりや。としどしに花は相似たれど、としどしに人は同じからず。老かさなれば、一とせの内にも、やうやく衰へ行きて、今の昔にしかず、後の今にしかざる事を知りて、かねてより悔なからん事をおもひ、時日ををしみ、一日もいたづらに過すべからず。今日暮れて明日もありとて賴むべからず。今日の日の內を、日々にをしむべし。
新字:一梓弓はる立ちしより、年の暮れ行くまで、射るが如くにおもほゆれば、時日のはやく過ぎ行くは、止めあへず。むべもとしと名づけ、又ときと言へるならん。されば光陰箭の如く、時節流るゝが如しといへるも、うける事にあらず。老にむかへば、猶更に年月の早く過ぐること、あたかも飛ぶが如し。あとをかへり見れば、五十のよはひを過来しも、さのみ久しからず。たとひ五十の後、又五十のよはひを経て、百年にいたるとも、猶行先の月日いよいよ早くして、ほどなく尽きなんこと、思ひやられ侍る。いくほどなき残れる齢を、たのしみてこそ過さまほしけれ。うれひ苦みて、むなしく過ぎなんは、いと愚なりや。としどしに花は相似たれど、としどしに人は同じからず。老かさなれば、一とせの内にも、やうやく衰へ行きて、今の昔にしかず、後の今にしかざる事を知りて、かねてより悔なからん事をおもひ、時日ををしみ、一日もいたづらに過すべからず。今日暮れて明日もありとて頼むべからず。今日の日の内を、日々にをしむべし。
書き下し
一梓弓はる立ちしより、年の暮れ行くまで、射るが如くにおもほゆれば、時日のはやく過ぎ行くは、止めあへず。むべもとしと名づけ、又ときと言へるならん。されば光陰箭の如く、時節流るるが如しといへるも、うける事にあらず。老にむかへば、猶更に年月の早く過ぐること、あたかも飛ぶが如し。あとをかへり見れば、五十のよはひを過来しも、さのみ久しからず。たとひ五十の後、又五十のよはひを経て、百年にいたるとも、猶行先の月日いよいよ早くして、ほどなく尽きなんこと、思ひやられ侍る。いくほどなき残れる齢を、たのしみてこそ過さまほしけれ。うれひ苦みて、むなしく過ぎなんは、いと愚なりや。としどしに花は相似たれど、としどしに人は同じからず。老かさなれば、一とせの内にも、やうやく衰へ行きて、今の昔にしかず、後の今にしかざる事を知りて、かねてより悔なからん事をおもひ、時日ををしみ、一日もいたづらに過すべからず。今日暮れて明日もありとて頼むべからず。今日の日の内を、日々にをしむべし。
現代語訳
梓弓を張るように春が立ってから年が暮れていくまで、矢を射るように思われるので、時の早く過ぎていくのは止めることができません。なるほど「とし(年)」と名づけ、また「とき(時)」と言うのでしょう。ですから「光陰は矢のごとく、時節は流れるがごとし」と言うのも、でたらめではありません。老いに向かうと、なおさら年月の過ぎるのが早く、まるで飛ぶようです。振り返れば五十の年を過ぎてきたのも、それほど長くはありません。たとえ五十の後にまた五十年を経て百歳に至っても、なお行く先の月日はいよいよ早く、まもなく尽きてしまうことが思いやられます。いくらもない残りの年齢を、楽しんで過ごしたいものです。憂え苦しんでむなしく過ごすのは、まことに愚かなことです。年ごとに花は同じように咲いても、年ごとに人は同じではありません。老いが重なると一年のうちにもしだいに衰えていき、今は昔に及ばず、後は今に及ばないことを知って、あらかじめ悔いのないように心がけ、時を惜しみ、一日もむだに過ごしてはなりません。今日が暮れても明日があると頼みにしてはなりません。今日一日のうちを、日々惜しむべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『楽訓』巻之中・節序一時節は、目に見えて早く立つとしも無けれど、日数かさなりゆけば、一年の過ぐるは程なし。人の一生を経るも、亦年やうやくかさなれば、老死にいたること遠からず。況や人の命は、いたりて危くして、朝夕を知らず、少壮といへど、老大に先だつ人多ければ、頼みなし。久しからざるうき世に、時のうつり行く事早ければ、あたら時日をむなしく過すべからず。
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『慎思録』巻之二古詩に曰く、四時更々代謝し、日月遞に差馳す、と。蓋し歳月の過ぎ易きを言ふなり。況んや暮齢に到りては、光陰征箭の如く、時節流水の如し。衰残の軀、楽しみを取るの工夫は、須らく一日を以て十日と為し、一月を以て一年と為すべし。若し然らざれば、縦ひ幸ひに天百年を仮すと雖も白駒の隙を過ぐるが如きのみ。残喘須臾の際、苟も徒爾にして身を終へなば、悔恨噬臍すと雖も、何の益か之有らん。
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『楽訓』巻之中・節序一冬の末つ方にも至りぬれば、今年の日かず残りすくなく、暦の軸あらはるるばかりにて、春のとなり既に近し。年の終るはをしむべく、齢のかさなるはうれはしけれど、新しき年を迎ふるは、珍かにて喜ぶべし。此ころは、世の中の人何くれといそがはしせきあへず、おほくののしりて、走りまどふを、ひとり静かに見る人は、楽むべし。一年は、はかなき夢の心地して過ぎぬれば、あとをかへり見て、せちに名残をしむべし。老の身は、月日もいとどたちやすく、何ほどもなき一年なるを、数へ添るもうらめし。されど人の世をふるは、思はずも変多き事なるを、一年の内、わざはひなくて過ぎぬる人は、また楽しからずや。春秋の暮行くだに、名残をしむべし。
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『楽訓』巻之上・総論一幼より、壮になり、老にいたり、衰へて死にいたるまで、百とせのよはひも、亦いくほどなし。人の世にある事、仮にやどれる旅人のごとし。東坡の詩に、一年は一夢の如く、百歳は真に過客なりといへるもむべなり。かく短き此世なれば、無用の事をなして時日をうしなひ、或はいたづらに為す事なくて此世暮れなんこと、をしむべし。つねに時日ををしみ、益ある事をなし、善をする事を楽みて過さんこそ、世に生けらんかひあるべけれ。
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『楽訓』巻之中・節序春の花は、いづれとなく開け出づる色、ことに目おどろかれぬるに、心みじかくて早く散りぬるはうらめし。九十の春光はいとながけれど、何くれと紛はし風雨も亦しげければ、為す事なく、はかなく過ぎて、とどめあへぬ春のかぎりの、けふの日の夕ぐれにさへなりぬ。落花寂々たる黄昏の時は、春の名残いとをしむべし。蘇子瞻が、青雲還一夢といへる、むべなるかな。吾がともがら、うき世のちりも、吾が心のきたなきも、花見るほどは忘られしに、今より後は如何せん。かかる折にふれては、殊更時の早く過ぎて、失ひやすき事、思ひ知られぬ。老いぬれば、今幾年か花もあひ見んと思へば、春の惜しさはいやまさりぬ。いとせめて樽酒余春を楽みて、老の憂を忘るべし。
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