楽訓 / 巻之上・総論
一あめつちの惠をうけて、生きとし生ける諸きはまりなき内に、人ばかり貴き物なし。如何となれば、人は萬物の靈なればなり。されば人と斯く生れきぬる事、いたりて得がたき幸なり。然るに我輩おろかにして、人の道を知らざれば、天地より生れ得たる人の心を失ひ、人の行くべき道をば行かで、行くまじき道に迷ひ、あさゆふ心をくるしめ、其上我が身に私して、人に情なく、おもんぱかり無くて、人のうれひを知らず。いたりて近き父母に事へてだに、其心にかなはず。およその人倫にまじはりて道を失ひ、人と生れたる貴き身をいたづらになし、鳥獸と同じく生き、草木と共に朽ちなんこそ本意なけれ。顏之推が、人身は得がたし、空しく過す事なかれといひけん事、心にとゞむべし。
新字:一あめつちの恵をうけて、生きとし生ける諸きはまりなき内に、人ばかり貴き物なし。如何となれば、人は万物の霊なればなり。されば人と斯く生れきぬる事、いたりて得がたき幸なり。然るに我輩おろかにして、人の道を知らざれば、天地より生れ得たる人の心を失ひ、人の行くべき道をば行かで、行くまじき道に迷ひ、あさゆふ心をくるしめ、其上我が身に私して、人に情なく、おもんぱかり無くて、人のうれひを知らず。いたりて近き父母に事へてだに、其心にかなはず。およその人倫にまじはりて道を失ひ、人と生れたる貴き身をいたづらになし、鳥獣と同じく生き、草木と共に朽ちなんこそ本意なけれ。顔之推が、人身は得がたし、空しく過す事なかれといひけん事、心にとゞむべし。
書き下し
一あめつちの恵をうけて、生きとし生ける諸きはまりなき内に、人ばかり貴き物なし。如何となれば、人は万物の霊なればなり。されば人と斯く生れきぬる事、いたりて得がたき幸なり。然るに我輩おろかにして、人の道を知らざれば、天地より生れ得たる人の心を失ひ、人の行くべき道をば行かで、行くまじき道に迷ひ、あさゆふ心をくるしめ、其上我が身に私して、人に情なく、おもんぱかり無くて、人のうれひを知らず。いたりて近き父母に事へてだに、其心にかなはず。およその人倫にまじはりて道を失ひ、人と生れたる貴き身をいたづらになし、鳥獣と同じく生き、草木と共に朽ちなんこそ本意なけれ。顔之推が、人身は得がたし、空しく過す事なかれといひけん事、心にとどむべし。
現代語訳
天地の恵みを受けて生きているあらゆる生き物は数限りありませんが、その中で人ほど貴いものはありません。なぜなら、人は万物の霊長だからです。ですから、人としてこのように生まれてきたことは、この上なく得がたい幸いです。それなのに私たちは愚かで人の道を知らないため、天地から授かった人の心を失い、行くべき道を行かずに行ってはならない道に迷い、朝夕心を苦しめています。そのうえ自分の身ばかりを大事にして、人に情けがなく、思慮もなく、人の悲しみを知りません。最も身近な父母に仕えることさえ、その心にかないません。広く人間関係の中でも道を失い、人として生まれた貴い身を無駄にして、鳥や獣と同じように生き、草木と一緒に朽ち果ててしまうのは、まことに残念なことです。顔之推が「人の身は得がたい。むなしく過ごしてはならない」と言ったことを、心にとどめておくべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之一・為学上一万物の内、人と生るる事甚かたし。如何となれば、鳥獣虫魚は年々に多く生る事、其数かぎりなし。人の数は、鳥獣虫魚の万が一もなくして、きはめて少なし。其上、人は万物にすぐれて、天地のめぐみをうくること厚し。かく貴き人身なれば、万物の内、人と生るる事、きはめてかたき事なるを、幸に人と生れたる我が身を持ちながら、学ばずして天地の道にそむき、人の道を知らずして行はず、人と斯く生れぬるたのしみを忘れ、いたづらに一生をむなしく過して、鳥獣と同じく生き、身死して後はよき名をのこす事なく、草木と同じく朽ちなん事、豈うらみ多き事ならずや。
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『大和俗訓』巻之一・為学上一顔子推は、人身得がたし、空しく過ぐることなかれといへり。万物にすぐれて、人と斯く生れたるは、誠に幸の至りなれば、人身得がたしといへり。人たる者、もし再び此世に生れば、たとひ此たび怠りて、人の道を知らずとも、かさねて又人とむまれ来ん時をたのむべき事もありなん。此身再び人となることを得ざれば、道を学び、此身をよくをさめ、人となりて終るべし。むなしく此世を過すべからず。もし人の道を知らで、空しく此世を過しなば、人と生れたるかひなかるべし。をしむべきかな。
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『楽訓』巻之上・総論一人の命は限りあり、ひいて長くしがたし。限りある命の内の光陰ををしみ、楽みて月日を送るべし。しばしが間も、益なき事をなし、ひが事を行ひ、楽まずして、空しく過すべからず。況やうれひ苦み、怒りかなしみて、楽を失ふは、愚なり。なす事なく楽まずして、月日を空しく過さば、千年を経ともかひ無かるべし。
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『五常訓』巻之一・総論一天地の恵をうけて、わが身に生れつきたる四徳なれば、人の人となれる道理、ここにあり。然るに此道理を知らず、且人欲にくらまされ、是をすてて行はず、天地の徳にそむき、人の道を失ふこと、悲むべし。此四徳を失へば、人と斯く生れたるしるし無く、鳥けだものに同じくして、草木の、天地の恵のままに生長し、枯しほみて人の養となり、妨とならざるには、遥に劣れるぞあさましき。人は万物の霊とて、天地の内にて、いと貴きものなれど、天地の性にそむき、人の道をうしなはば、禽獣に近くて、貴ぶに足らず。是自ら我が身を賤しくもちくだすなり。豈賤しむべき事ならずや。
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『楽訓』巻之上・総論一およそ人の心に、天地よりうけ得たる太和の元気あり。是人の生ける理なり。草木の発生して止まざるが如く、つねに我が心の内に、天機の生きてやはらぎ喜べる勢の止まざるものあり。是を名づけて楽と云ふ。是人の心の生理なれば、即是仁の理なり。唯賢者のみ此楽あるにあらず、なべての人も皆これあり。されど学ばざれば此楽を知らず。易に百姓日々に用ひて知らずといへるが如し。又私慾にわづらはされて、此楽をうしなふ。ひとり賢者は此楽を知り、又私慾のわづらひなくして、楽を失はず、唯人のみ此楽あるにあらず、鳥獣草木にも此楽あり。草木の生ひ茂り、花さき実のり、鳥のさへづり、獣のたはぶれ遊び、鳶の飛んで天にいたり、魚の淵にをどるも、皆此楽を得たるなり。されども衆人すら此楽を知らずして失へり、いはんや鳥獣は云ふに及ばず。
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『楽訓』巻之下・後論一つくづくと思へば、楽おほき此世なるを、道を知らざれば、我と心をくるしめ、天をうらみ、人をとがむ。かく道を知らでうれひおほき人は、くれまどふ心のやみこそむげに愚なりといふべけれ。人の身金石にあらず、生けるもの終に死なざるはなし。又二たび生れくる身にしあらざれば、此世なる間は、楽みてこそありぬべけれ。くやしく過しむかしの事は、すべきやうなし。いくばくならぬ齢なれば、今よりのち、一日も早く日月ををしみ、先のひが事をくいて、飛驒たくみうつ墨なはにあらねども、唯一すぢに善をこのみ、道を楽みて過ぐさんこそ、此世に生けるかひあるべけれ。年老いては、同じことするならひなれば、あまのたくなはくりかへし、かくいひいひて、たまくしげあけくれ自ら心をいましめ、又人に楽をすすむるなかだちとするならし。かへすがへす、われも人も、かく生れつる楽を知らで、身をいたづらになし、さてもかひなく世に朽ちなん事うらむべし。もし朝に道を聞けらば、人となれるかひありて、夕に死ぬとも、また何をかうらみんや。
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