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楽訓 / 巻之下・後論

一つくづくと思へば、樂おほき此世なるを、道を知らざれば、我と心をくるしめ、天をうらみ、人をとがむ。かく道を知らでうれひおほき人は、くれまどふ心のやみこそむげに愚なりといふべけれ。人の身金石にあらず、生けるもの終に死なざるはなし。又二たび生れくる身にしあらざれば、此世なる間は、樂みてこそありぬべけれ。くやしく過しむかしの事は、すべきやうなし。いくばくならぬ齡なれば、今よりのち、一日も早く日月ををしみ、先のひが事をくいて、飛驒たくみうつ墨なはにあらねども、唯一すぢに善をこのみ、道を樂みて過ぐさんこそ、此世に生けるかひあるべけれ。年老いては、同じことするならひなれば、あまのたくなはくりかへし、かくいひいひて、たまくしげあけくれ自ら心をいましめ、又人に樂をすゝむるなかだちとするならし。かへすがへす、われも人も、かく生れつる樂を知らで、身をいたづらになし、さてもかひなく世に朽ちなん事うらむべし。もし朝に道を聞けらば、人となれるかひありて、夕に死ぬとも、また何をかうらみんや。

新字:一つくづくと思へば、楽おほき此世なるを、道を知らざれば、我と心をくるしめ、天をうらみ、人をとがむ。かく道を知らでうれひおほき人は、くれまどふ心のやみこそむげに愚なりといふべけれ。人の身金石にあらず、生けるもの終に死なざるはなし。又二たび生れくる身にしあらざれば、此世なる間は、楽みてこそありぬべけれ。くやしく過しむかしの事は、すべきやうなし。いくばくならぬ齢なれば、今よりのち、一日も早く日月ををしみ、先のひが事をくいて、飛驒たくみうつ墨なはにあらねども、唯一すぢに善をこのみ、道を楽みて過ぐさんこそ、此世に生けるかひあるべけれ。年老いては、同じことするならひなれば、あまのたくなはくりかへし、かくいひいひて、たまくしげあけくれ自ら心をいましめ、又人に楽をすゝむるなかだちとするならし。かへすがへす、われも人も、かく生れつる楽を知らで、身をいたづらになし、さてもかひなく世に朽ちなん事うらむべし。もし朝に道を聞けらば、人となれるかひありて、夕に死ぬとも、また何をかうらみんや。

書き下し

一つくづくと思へば、楽おほき此世なるを、道を知らざれば、我と心をくるしめ、天をうらみ、人をとがむ。かく道を知らでうれひおほき人は、くれまどふ心のやみこそむげに愚なりといふべけれ。人の身金石にあらず、生けるもの終に死なざるはなし。又二たび生れくる身にしあらざれば、此世なる間は、楽みてこそありぬべけれ。くやしく過しむかしの事は、すべきやうなし。いくばくならぬ齢なれば、今よりのち、一日も早く日月ををしみ、先のひが事をくいて、飛驒たくみうつ墨なはにあらねども、唯一すぢに善をこのみ、道を楽みて過ぐさんこそ、此世に生けるかひあるべけれ。年老いては、同じことするならひなれば、あまのたくなはくりかへし、かくいひいひて、たまくしげあけくれ自ら心をいましめ、又人に楽をすすむるなかだちとするならし。かへすがへす、われも人も、かく生れつる楽を知らで、身をいたづらになし、さてもかひなく世に朽ちなん事うらむべし。もし朝に道を聞けらば、人となれるかひありて、夕に死ぬとも、また何をかうらみんや。

現代語訳

つくづく思えば、楽しみの多いこの世なのに、道を知らないので、自分から心を苦しめ、天を恨み、人をとがめます。このように道を知らずに憂いの多い人は、途方に暮れる心の闇こそ、まったく愚かだと言うべきです。人の身は金石ではなく、生きているものは最後に死なないものはありません。また二度と生まれてくる身でもないのですから、この世にいる間は楽しんでいるべきです。悔やまれる過ぎ去った昔のことは、どうしようもありません。いくらも残っていない年齢ですから、今から後、一日でも早く月日を惜しみ、以前の誤りを悔いて、飛騨の匠が打つ墨縄ではないけれども、ただ一筋に善を好み、道を楽しんで過ごしてこそ、この世に生きている甲斐があるでしょう。年老いては同じことを繰り返すのが常なので、海人の栲縄を繰るように繰り返し、このように言い言いして、明け暮れ自ら心を戒め、また人に楽しみを勧める仲立ちとするのです。かえすがえすも、私も人も、このように生まれついた楽しみを知らずに、身をむなしくし、甲斐もなく世に朽ちてしまうのは恨めしいことです。もし朝に道を聞いたならば、人となった甲斐があって、夕べに死んでも、また何を恨むことがあろうか。

解説

『楽訓』全巻を結ぶ一条です。この世は楽しみが多いのに、道を知らないから自ら苦しむ、と益軒は総括します。人は二度生まれないのだから、過去を悔やむより、残る日々を一筋に善と道の楽しみにささげよと言い、飛騨の匠の墨縄や海人の栲縄といった和歌の言葉を織り込んで、81歳の自分が同じことを繰り返し書くのは自戒と人への勧めのためだと述べます。最後は『論語』里仁篇の「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」で締めくくり、学ぶ喜びこそ人生の意味だと示しています。

この章句が説くこと

道楽しみ学問論語人生

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