礼記 / 檀弓下
陽門之介夫死,司城子罕入而哭之哀。晉人之覘宋者反報於晉侯曰:「陽門之介夫死,而子罕哭之哀,而民說,殆不可伐也。」孔子聞之曰:「善哉覘國乎!《詩》云:『凡民有喪,扶服救之。』雖微晉而已,天下其孰能當之。」
新字:陽門之介夫死,司城子罕入而哭之哀。晋人之覘宋者反報於晋侯曰:「陽門之介夫死,而子罕哭之哀,而民説,殆不可伐也。」孔子聞之曰:「善哉覘国乎!《詩》云:『凡民有喪,扶服救之。』雖微晋而已,天下其孰能当之。」
書き下し
陽門の介夫(かいふ)死す。司城(しじょう)子罕(しかん)入りてこれを哭すること哀し。晋人の宋を覘(うかが)う者、反りて晋侯に報じて曰く、「陽門の介夫死して、子罕これを哭すること哀しく、而して民説(よろこ)ぶ。殆ど伐つべからず」と。孔子これを聞きて曰く、「善いかな国を覘うこと。詩に云う、『凡そ民に喪有れば、扶服(ほふく)してこれを救う』と。晋に微(あら)ずと雖も、天下其れ孰か能くこれに当たらん」と。
現代語訳
宋の都の陽門(宋の城門の名)を守る甲冑の兵士が死んだ。司城(宋の官名で、司空にあたる)の子罕は、その家に入って心から悲しんで哭した。宋の様子を探っていた晋の者が帰国して、晋侯に報告した。「陽門の兵卒が死んだところ、子罕がひどく悲しんで哭し、民はそれを喜んでおります。宋はおそらく攻めてはなりません」。孔子はこれを聞いて言った。「見事な国の探り方だ。『詩経』にも『およそ民に喪があれば、腹ばいになってでも駆けつけて救う』とある。晋のような強国でなくとも、天下のどの国であれ、このような宋に立ち向かうことはできまい」。
解説
宋の執政子罕が、城門を守る一兵卒の死を心から悼んだという話である。鄭玄は子罕を宋の戴公の子孫である楽喜と注する。国の卿相が身分の低い者の喪に身を運んで哭すれば、民は喜び、上と生死をともにしようとする。孔穎達の疏はそう説き、敵国の間者がその空気を見て取って攻めるべきではないと報告したのだとする。孔子が讃えたのは子罕だけでなく、城壁や兵の数ではなく、微かな人心のまとまりを見抜いた間者の眼である。引かれた詩は『詩経』邶風「谷風」の句で、隣人の喪にも這ってでも駆けつける心を歌う。孟子が「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」と説いたのと同じく、国の強さは人の和にあるという考えがここにある。組織においても、名もない一人の不幸に上の者がどう向き合うかを、周囲はよく見ている。その姿こそが、外からも見透かされる組織の本当の強さになる。
この章句が説くこと
礼記弔い人の和孔子檀弓
関連する章句
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孔子家語・曲禮子貢問晋、将に宋を伐たんとし、人をして之を覘わしむ。宋の陽門の介夫死し、司城子罕之を哭して哀しむ。覘う者反りて晋侯に言いて曰く、「陽門の介夫死し、子罕之を哭して哀しむ。民咸な宋を悦ぶ、殆ど未だ伐つべからざるなり」と。孔子之を聞きて曰く、「善いかな、国を覘うか。詩に云う、『凡そ民喪有れば、匍匐して之を救う』と。子罕焉れ有り。晋国に非ずと雖も、其れ天下孰か能く之に当たらんや。是を以て周任言有りて曰く、『民其の愛を悦ぶ者は、敵すべからず』と」と。
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礼記・檀弓下諸侯秦を伐つ、曹の桓公会に卒す。諸侯含(がん)せんと請い、これをして襲(しゅう)せしむ。 襄公荊(けい)に朝す、康王卒す。荊人曰く、「必ず襲せんことを請う」と。魯人曰く、「礼に非ざるなり」と。荊人これを強う。巫をして先ず柩を拂(はら)わしむ。荊人これを悔ゆ。 滕の成公の喪に、子叔敬叔をして弔し、書を進めしめ、子服恵伯介(かい)と為る。郊に及びて、懿伯の忌(うら)みの為に入らず。恵伯曰く、「政なり、叔父の私を以て公事を将(おこな)わざるべからず」と。遂に入る。
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礼記・檀弓上陳荘子死し、魯に赴(ふ)す。魯人哭すること勿からんと欲す。繆公(ぼくこう)県子(けんし)を召してこれに問う。県子曰く、「古の大夫は、束修の問も竟(さかい)を出でず。これを哭せんと欲すと雖も、安んぞ得てこれを哭せん。今の大夫は、政を中国に交う。哭すること勿からんと欲すと雖も、焉んぞ得て哭せざらん。且(か)つ且つ臣これを聞く、哭に二道有り。愛して哭する有り、畏れて哭する有り」と。公曰く、「然り。然らば則ち如何にして可ならん」と。県子曰く、「請う諸を異姓の廟に哭せん」と。是に於いて与(とも)に諸を県氏に哭す。
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礼記・檀弓上君子曰く、「人の軍師を謀りて、敗るれば則ちこれに死す。人の邦邑を謀りて、危うければ則ちこれに亡(ほろ)ぶ」と。 公叔文子瑕丘(かきゅう)に升(のぼ)る。蘧伯玉(きょはくぎょく)従う。文子曰く、「楽しいかな斯の丘や。死せば則ち我焉(ここ)に葬られんと欲す」と。蘧伯玉曰く、「吾子これを楽しまば、則ち瑗(えん)請う前(さき)んぜん」と。 弁人に其の母死して孺子(じゅし)のごとく泣く者有り。孔子曰く、「哀しきは則ち哀し。而れども継ぎ為し難きなり。夫れ礼は、伝うべきが為なり、継ぐべきが為なり。故に哭踊(こくよう)に節有り」と。
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呂氏春秋・召類④士尹池、荊の為に宋に使いす。司城子罕之を觴す。南家の牆、前に犨でて直ならず。西家の潦、其の宮を徑て止まず。士尹池、其の故を問う。司城子罕曰く、「南家は工人なり。鞔を為る者なり。吾將に之を徙さんとす。其の父曰く、『吾鞔を為るを恃みて以て食らうこと三世なり。今之を徙さば、是れ宋國の鞔を求むる者、吾が處を知らざるなり。吾將に食らわざらんとす。願わくは相國の吾が食らわざるを憂えんことを。』是の故の為に、吾徙さざるなり。西家は高く、吾が宮は庳し。潦の吾が宮を經るや利なり。故に禁ぜざるなり。」士尹池、荊に歸る。荊王適々兵を興こして宋を攻めんとす。士尹池、荊王を諫めて曰く、「宋は攻む可からざるなり。其の主は賢にして、其の相は仁なり。賢者は能く民を得、仁者は能く人を用う。荊國之を攻むれば、其れ功無くして天下の笑いと為らん。」故に宋を釋てて鄭を攻む。孔子之を聞きて曰く、「夫れ之を廟堂の上に脩めて、衝を千里の外に折くとは、其れ司城子罕の謂か。」宋は三大萬乘の間に在り。子罕の時、相侵す所無く、邊境四に益し、平公・元公・景公に相として以て其の身を終ゆるは、其れ唯だ仁にして且つ節なればなるか。故に仁節の功為るや大なり。故に明堂は茅茨蒿柱、土階は三等にして、以て節儉を見わす。
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