折たく柴の記 / 『折たく柴の記』木下順庵に学び推挙されるまで
その後、我出羽國山形といふ所にゆく事ありし時、紀行一卷あり。(貞享三年丙寅の秋、三十歳の時の事なり。)阿比留、其の卷をもて、木先生に見せ進らせ、朝鮮の人の序の事など申ししかば、あはれ、その人をあひ見ばやとのたまひぬとて、阿比留が媒して、はじめて木先生に見えまゐらせし事あり。そののち、彼の阿比留病して死せむとする時に、我をして先生の碑文を望み申して、我をして書かしめたりき。(阿比留、後には西山順泰と申し、元祿元年九月三日に死しき)これらの事によりて、我も彼の門に出で入る事の年を經しほどに、まさしく束脩の禮を執るにも及ばで、親しき師弟とはなりたる也。されば、彼の門に年久しき高弟も多かれど、我をば常に其の座の上につかしめられ、つひには文昭廟の藩邸におはしましゝ時に、薦擧せられしには至りたりけり。今これらの事どもを思ふに、むかし我三歳なりし時より、物かく事をしれる初に、しかるべき師といふものもありなむにはかく書に拙き身にもあらじ。また六歳の時より、詩を誦し習ひし事などありし時より、したがひ學ぶ所もありなば、文學の事もすこしくすゝむ事もありなまし。まして、十七の時より、斯道にこゝろざしし時より、をしへみちびく人もありなむには、今の我にもあらじ。我藩邸に仕へまゐらせし後に至りてこそ、自らも書籍をもとめ、賜はりし所も多くはなりたれ。されど、身すでにつかへにしたがひしかば、書を觀るべきいとまも多からず。是より先には、身つねに貧しくして、しかるべき書どもをば、人に借りもとめて見もし、またしるしおくべきものどもをば、手づからうつししほどに、我が見たりし書とても多からず。されば、學文の道において、不幸なる事のみ多かりしこと、我にしくものあるべからず。かほどまでにも學びなしし事は、前にもしるしし事の如く、つねに堪へがたき事に堪ふべき事をのみ事として、世の人の一たびし給ふことをば十たびし、十度し給ふ事をば、百たびせしによれる也。
新字:その後、我出羽国山形といふ所にゆく事ありし時、紀行一巻あり。(貞享三年丙寅の秋、三十歳の時の事なり。)阿比留、其の巻をもて、木先生に見せ進らせ、朝鮮の人の序の事など申ししかば、あはれ、その人をあひ見ばやとのたまひぬとて、阿比留が媒して、はじめて木先生に見えまゐらせし事あり。そののち、彼の阿比留病して死せむとする時に、我をして先生の碑文を望み申して、我をして書かしめたりき。(阿比留、後には西山順泰と申し、元禄元年九月三日に死しき)これらの事によりて、我も彼の門に出で入る事の年を経しほどに、まさしく束脩の礼を執るにも及ばで、親しき師弟とはなりたる也。されば、彼の門に年久しき高弟も多かれど、我をば常に其の座の上につかしめられ、つひには文昭廟の藩邸におはしましゝ時に、薦挙せられしには至りたりけり。今これらの事どもを思ふに、むかし我三歳なりし時より、物かく事をしれる初に、しかるべき師といふものもありなむにはかく書に拙き身にもあらじ。また六歳の時より、詩を誦し習ひし事などありし時より、したがひ学ぶ所もありなば、文学の事もすこしくすゝむ事もありなまし。まして、十七の時より、斯道にこゝろざしし時より、をしへみちびく人もありなむには、今の我にもあらじ。我藩邸に仕へまゐらせし後に至りてこそ、自らも書籍をもとめ、賜はりし所も多くはなりたれ。されど、身すでにつかへにしたがひしかば、書を観るべきいとまも多からず。是より先には、身つねに貧しくして、しかるべき書どもをば、人に借りもとめて見もし、またしるしおくべきものどもをば、手づからうつししほどに、我が見たりし書とても多からず。されば、学文の道において、不幸なる事のみ多かりしこと、我にしくものあるべからず。かほどまでにも学びなしし事は、前にもしるしし事の如く、つねに堪へがたき事に堪ふべき事をのみ事として、世の人の一たびし給ふことをば十たびし、十度し給ふ事をば、百たびせしによれる也。
書き下し
その後、我出羽國山形といふ所にゆく事ありし時、紀行一卷あり。(貞享三年丙寅の秋、三十歳の時の事なり。)阿比留、其の卷をもて、木先生に見せ進らせ、朝鮮の人の序の事など申ししかば、あはれ、その人をあひ見ばやとのたまひぬとて、阿比留が媒して、はじめて木先生に見えまゐらせし事あり。そののち、彼の阿比留病して死せむとする時に、我をして先生の碑文を望み申して、我をして書かしめたりき。(阿比留、後には西山順泰と申し、元祿元年九月三日に死しき)これらの事によりて、我も彼の門に出で入る事の年を經しほどに、まさしく束脩の禮を執るにも及ばで、親しき師弟とはなりたる也。されば、彼の門に年久しき高弟も多かれど、我をば常に其の座の上につかしめられ、つひには文昭廟の藩邸におはしましゝ時に、薦擧せられしには至りたりけり。今これらの事どもを思ふに、むかし我三歳なりし時より、物かく事をしれる初に、しかるべき師といふものもありなむにはかく書に拙き身にもあらじ。また六歳の時より、詩を誦し習ひし事などありし時より、したがひ學ぶ所もありなば、文學の事もすこしくすゝむ事もありなまし。まして、十七の時より、斯道にこゝろざしし時より、をしへみちびく人もありなむには、今の我にもあらじ。我藩邸に仕へまゐらせし後に至りてこそ、自らも書籍をもとめ、賜はりし所も多くはなりたれ。されど、身すでにつかへにしたがひしかば、書を觀るべきいとまも多からず。是より先には、身つねに貧しくして、しかるべき書どもをば、人に借りもとめて見もし、またしるしおくべきものどもをば、手づからうつししほどに、我が見たりし書とても多からず。されば、學文の道において、不幸なる事のみ多かりしこと、我にしくものあるべからず。かほどまでにも學びなしし事は、前にもしるしし事の如く、つねに堪へがたき事に堪ふべき事をのみ事として、世の人の一たびし給ふことをば十たびし、十度し給ふ事をば、百たびせしによれる也。
現代語訳
その後、私が出羽国山形という所に行くことがあったとき、紀行一巻を作った。(貞享三年丙寅の秋、三十歳のときのことである。)阿比留がその巻を木先生に見せ申し上げ、朝鮮の人の序のことなどを申したところ、「ああ、その人に会ってみたいものだ」とおっしゃったとのことで、阿比留が仲立ちして、初めて木先生にお目にかかったことがある。その後、あの阿比留が病んで死のうとするとき、私に先生の碑文を依頼申し上げさせ、私に書かせたのだった。(阿比留は後に西山順泰と申し、元禄元年九月三日に死んだ。)こうしたことによって、私もあの門に出入りして年を経るうち、きちんと束脩の礼をとるまでもなく、親しい師弟となったのである。それゆえ、あの門に年久しい高弟も多かったが、私をいつもその座の上席につかせてくださり、ついには文昭廟(のちの六代将軍家宣)が藩邸におられたときに、推挙されるに至ったのだった。今これらのことを思うと、昔私が三歳のとき、物を書くことを知った初めに、しかるべき師というものがあったなら、これほど書に拙い身ではなかっただろう。また六歳のとき、詩を誦し習ったときから、従い学ぶところがあったなら、文学の面でも少しは進むこともあっただろう。まして、十七歳のときから、この道に志したときから、教え導く人があったなら、今の私ではなかっただろう。私は藩邸にお仕え申した後になって、自分でも書籍を求め、賜った物も多くなった。けれども、身がすでに仕えにつき従っていたので、書を見る暇も多くない。これより前は、身はいつも貧しくて、しかるべき書物は、人に借りて見たり、また書き留めておくべき物は、手ずから写したので、私が見た書物とても多くはない。だから、学問の道において、不幸なことが多かったのは、私に及ぶ者はあるまい。これほどまでに学びを成したのは、前にも記したとおり、いつも堪えがたいことに堪えることばかりを事として、世の人が一度なさることを十度し、十度なさることを百度したことによるのである。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』堀田家で禄を辞し、致仕を願い出る我廿三歳の夏の頃。豫州の家滅びしかば、前にしるしし事のごとく、我がつかへの塗もおのづからひらけたり。かくて筑前守紀正俊朝臣に薦めしものゝありて。廿六歳の三月に、彼の朝臣の許に出で仕ふ。一年を隔て、我廿八歳の秋、筑州の事おはしまして、其の嫡男下總守正仲朝臣、彼のあとを繼がれしかど、不幸のことのみ打つゞきて、後には家人等を扶助すべきことも意のまゝならず。皆々其の祿米を減ぜられしほどに、祿を辭し去るものどもすくなからず。我はじめ出で仕へしより此のかた、彼の父子にしられし身にもあらねども、凡そ主となり、從者となれるものゝ、かゝる時に至りて、はなれ去るべき事にあらずとおもひしかば、わづかに妻拏の饑をまぬかるゝのみにて、心にもあらぬつかへにしたがひゐたりけれど、いとま多かる身なりしかば、この時にこそ經史の類をも涉獵せし事はありつれ。貧は士の常などいふ事あれば、私の事においては、いかにも堪へ忍びしかど、つかへにしたがふ身には、そのほどにつけて、なすべき事ども多ければ、つひには財盡き、力窮まりて三十五歳といひし春に至りて、ありし事共書きあらはして、身のいとまを給はるべき由を申し聞え、したしかりしものどもには、かねてよりかく思ひたちし事を語りたりけるに、祿米あれば、饑ゑて死するまでの事はあらず。かくまで財力つきはてし人の、祿をも辭して去らむには、一日の饑をすくふべきたすけもあらじ。我が身こそかくまでおもひたち給ひたれば、いかにもおはすべきこととなれ。わかき妻、をさなき子どもの事をば、いかにし給ふべきなど、いふ事共ありしかど、頼みし人の不幸の事共おはしまさずば、我今までかくてはをるべからず。此の年頃堪へがたき事をも堪へ、忍びがたき事をも忍びしは、主となしまゐらせ從者となりし所を思ひしがゆゑなり。けふ祿辭し去りて、あすは妻拏等皆々はなれちりなむをもて、我がこゝろざしのほどは見ゆべき事ぞかし。天もしものしり給ふ事あらむには、それまでの事もあらじものをといひけり。總州もいかに思ひ給ひしにかあらむ。のたまひ出す旨もなく、春すぎ夏たけてのたまふ事どもありて、たゞいかにもして、我が家をさらむ事、思ひとゞまるべしとありしに、(此の使は太田垣といひし家の老たり)されど、また申す旨ありし程に、
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